慣習から考察する人と社会

7585 吉田有里


1.はじめに

今日、われわれ人間は社会に属している。そして人間は社会という存在を認識している。しかし、社会というものは漠然とし過ぎで、かつ、人びとの目に見えないものである。だから私はそれをできる限り明確にするべく慣習といった社会的行為から人と社会の関係性について考察していこうと思う。


2.慣習とは

慣習とはわれわれの知らない個々人、したがってわれわれにとって特定の個人ではない人たちの行為を予見することを可能にする行為規範である。
しかし、慣習は誰にも、どこにも起源を持たない。人びとは「そう行われているから註1 」といって慣わしになったことや習慣となったことをする。ここでいう人びととはすべての人であると同時に特定の誰でもない人のことを指す。このことをもう少しわかりやすく、経験に基づいて述べるなら「みんながそうするから自分もそうしよう」という少数派よりも多数派の方へ流される多数決の原理が適応されると思われる。慣習はわれわれに行為を強制し、その強制力は多大である。人と社会の共存によって、慣習は社会や周囲の人びとによって押しつけられたものであるが、実際のところわれわれは強制されているということを感じることはないだろう。
また、慣習はときにはしたくないのだが、しなければならないものでもある。慣習というものはさりげなく、気付かないうちに人びとの中へと浸透している。もうもはやそれを行うことが常識となっている。人の目を気にする人間という生き物はみんなと一緒でありたいがために慣習となっている行為をするのであろう。


3.非人間的人間

ここで一つ問いかけをしてみる。誰に言われたわけでもないのに、われわれはなぜ服を着ているのだろうか。
服を着るというのは現在では当たり前の常識的行為である。服を着るのは、われわれ自身の思いつきでもなく、個人の意思でもなく、服を着るということが慣わしになっているからである。地域や部族によっては衣服を身に付けずに生活する人びともいるが、たいていの人は衣服を身に付ける。仮に日本で服を着ずに歩いていた場合、その人は変わり者であるとか変質者扱いされ、警察に捕まるだろう。法律違反にもなる。服を着るという習慣は無意識のうちに行われ、もはや暗黙の了解となっている。慣習は一見人間的行為のように思えるが行為主体は人間ではなく、行為をするのは誰でもない不特定の人であるがゆえに非人間的行為となる。
今問題となっているのは、われわれが非人間的人間であるということを理解し、それに気づくことができるかどうかということである。慣習という行為が行われる社会に馴染んでしまった人間にこの問題をどう気づかせようか。
この問題を理解するために適切な社会的事例をオルテガの例に倣って挙げていくこととする註2 。われわれが道路を横断する際にしばしば交通整理をしている警官に出くわし、そして警官はわれわれの行く手をはばむ。このとき警官は個人的生を―人間的生を中断し、ルールに沿って行為を機械的に遂行する。一方でわれわれは個人的な便宜から道路を横切ろうとする。双方の関係を操作するのは何であろうか。何か目に見えない存在が多大なる権力を持ち支配している。そして、その権力をある機関を媒介して社会へと行使する。目に見えない存在として国家がある。国家は我々が好き勝手に道路を横切ることを許さない。国家は社会的なものであるが常に人びとのうしろに隠れている。社会的実在ならびにそれに厳密な意味で属するすべてのものは、本質的に隠れたもの、被われたもの、内密のものである註3 
慣習のような行為には二面性があり、一方は知的なふるまい―人間的行為、他方には個人に起源を持たない行為・個人が理解していない行為があるということである。
問題を理解するために重要なのは、自分のしようとしていることはすべて自分の頭に浮かんだことであり、自分にとって個人の意志から生まれたものであるという明確な目的を持って行為を承知することである。


4.身近な慣習―挨拶―

以上に述べたように、慣習の持つ特徴は様々である。まだ不足している部分を補うのと同時にさらに慣習を詳しく考察するために挨拶といった行為を取り上げる。オルテガが具体的慣習を分析していく際には挨拶ほど適切なものはないと述べているほど挨拶というものはわれわれと密接な関係にあるのである。
人間は人に出会うと必ずといって良いほど挨拶をする。「おはようございます」「こんにちは」「はじめまして」などさまざまな言葉が存在する。よく見られるものとして会釈といった言葉を発さない挨拶もある。外国へ行けばハグやキスなどもある。世界中を見れば実に多種多様な挨拶が存在し、それぞれに適した挨拶の形態がある。けれども、挨拶のような行為は自分からやろうとしたものではなく、実行はするものの意志によって出たものではない。挨拶という行為は対-個人的もしくは対人間的関係ではないことを認めさせてくれる。
一般的に慣わしとなった形式は他人の手をとる―それを握る―それを振る―そして振り放すといったものである。この一連の簡単な行為の繰り返しは初対面の人と出会ったときは必ずといっていいほど行われ、もしこれをしなければ非常識極まりないマナーの身に付いていない下劣な人間という負のイメージをまとうことになる。実際に自分の立場において考えてもらいたい。初対面の人と出会ったときに挨拶をしないということがあるだろうか。余程の人見知りや無愛想な人でない限り必ず行うと思う。する・しないを意識して考えるよりも、もうそれはしなければならないものとして自己の中に潜在している。
慣習はひとりひとりの思い付きではなく、知らない誰かによって外部からわれわれにあたえられるものである。また、われわれは慣習を受け入れるものの自発的意志からのものではない。もし挨拶という行為が意味を持たないのならば、われわれはそれをしようとも思わないだろう。意味があっての行為なのである。
すなわち慣習とは厳密な意味でわれわれの社会的環境もしくは世界であり、われわれがその中に生きるところの社会である註4 


5.まとめ―人と社会―

慣習に従う際、われわれはロボットのように機械的に振る舞い、社会あるいは集団の下に生きる。人間的行為が欠如しているものの慣習は未知のもの、見知らぬものとの共存を可能にしてくれる。また、慣習は人間がしなければならないすべてのことを既にプログラムとして創り上げてくれている。したがってわれわれは個人的生を他方に集中させることができる。慣習は社会的生であり、人間的ではない生、オルテガの言うように「自然と人間との中間にあるもの」なのだ註5 。慣習について考えることによって人と社会の関係性が明確になったように思うが、まだ不十分な部分も存在する。そのため今後も人間社会にとって何か、社会は人間にとって何かを追及していく必要がある。


【註】
(註1)オルテガ、12頁引用。 >>本文へ
(註2)オルテガ、221-223頁参考。 >>本文へ
(註3)オルテガ、224頁引用。 >>本文へ
(註4)オルテガ、235頁引用。 >>本文へ
(註5)オルテガ、348頁引用。 >>本文へ

【参考文献】
 オルテガ 『個人と社会―人と人びと―』(1989) A・マタイス、佐々木 孝 訳 白水社




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