7585 吉田有里 目次
・序論
まず始めに、この論文の主張として、権利の存在を無視することのできない今日、権利は当然保護されるべきものという意識が強固なものとなっているが、時と場合によって権利保護の対象は変化し、権利を認め守ることが必ずしもいつも正しいとは限らない。人間一人一人の権利を保護するからといって、人間と人間の欲による争いがなくなるわけでなく、むしろ自分だけ守られていればいいという自己保存の傾向が強くなり、よって犠牲を顧みず他人の権利を平気で侵害してしまう場合や、ある人の主張する内容が道徳的に間違っていても絶対的権威のある権利には逆らえず渋々それを容認しなければならない状況などに陥ってしまうように、権利を保護しなければならないという意識に反する負の要素がたくさん存在するにもかかわらず、なぜ権利を保護する必要があるのだろうかという問題にいきつく。それに対する答えは簡単なものであり、なぜなら権利というものが自然から生まれたものだからである。だから、権利を保護することも自然であり、拒否権を持たないのである。今でさえこんなにも権利に対して過敏な反応を示すようになった人間であるが、そもそもの権利の起源が人間の自然としての本性や理性などにあるため、人間と権利は密接な関係にある。我々は日々ごく自然に様々の権利について語り、またその要求を行っている。そこには思想や良心の自由の権利、表現の自由の権利、福祉の権利などの憲法上の権利、日本の政府に対して請求する権利、裁判において用いられる権利など、多様な権利が存在している。このように多様な権利が存在するということは、それだけ個々人のために擁護されなければならないものがあるということである。権利というものの存在によって様々な権利自体が守られている反面、あまりに権利を主張するために様々な問題を引き起こしているのも事実である。例としては、宗教的信条による差別、情報社会から生ずるプライバシーの侵害、犯罪者に対する基本的な権利の確立や死刑の廃止、児童虐待、性差別、野生動物の保護、環境汚染、外国人差別など極めて多面的な問題が挙げられる。権利の重要性がますます強く説かれる今日、我々自身権利の根源を認識し直す必要があり、それが問題意識を明瞭にするためにもなる。我々は権利による保護の範囲や権利の存在自体を認識し、「権利=絶対的なもの」という概念を捨て、我々人間や共同体と密接な関係にある権利の存在をあらゆる角度から見る必要がある。人間の自然や権利の裏側に隠されている自然の存在に気づくことで、我々の自己保存的な考え方、自己中心的な考え方が一掃され、現代社会に取り巻く犯罪や紛争、人間同士の争いごとがとても愚かなことであるということを認識するようになるのである。以上のような問題関心の下に、私は以下の順序で本論文での考察を進める。まず第一章では権利の自然としての部分を知るべく自然権に着目し、また自然権を考えるにあたって現れた自然法についても言及する。そして人間の自然についても考察し、権利を保護することは絶対的なことであるという意識を公正・正義といった観念を用いることによって覆し、現在における権利の概念から逸脱する。それを受けて第二章では、権利の構造が単一なものではなく、個人的権利、集団的権利など多様な権
利から成立する複雑なものであるということを提示し、それぞれの性質を考察する。そして最後に現在確立されている権利と過去から読み取れる自然的要素を含む権利とを照合し、権利の変遷を伺い権利を保護することの意義と今日における重要性を論じることにする。
もしこの世に人間が生をうけなかったとすれば、おそらく今日のように権利の存在が重要視されたり、また権利が希求されたりすることはなかっただろう。人間の肉体は自然によって確立され、自然から由来するものはすべて真実であり、偽りがあるとすれば、誰かが思わず自らの欲を投じてしまったからである註1 。つまり、人間は本来自然であるといえる。人間が権利を保持することは自然的である場合と意識的である場合とに分けることができ、簡潔に説明すれば、人間が自然状態で存在するならそれは自然的であり、人間の自己中心性が芽生えた状態で保持するならそれは意識的行為となる。また、人間が自然であるとするならば権利も自然から由来したものであると考えられる。権利は人間に深く関係するものであり、一見人間的なもののように見えるかもしれないがやはり自然的なものである。権利の本質を知るためには、まず人間と権利の関係を自然から知る必要があり、両者の背後に隠れている自然そのものの存在に気付かなければならない。
人間の自然とは人間の持つ本性のことを指し示し、人間の自由や平等、生命や身体の安全や所有に関する権利は人間の本性、理性から生まれたものである註2 。これは自然権に基づき、自然権とは、「生存しているとの理由で人間に属する権利のことなのであって、この種の権利としては、すべての知的権利ないし精神の持つ権利があり、また他人の持つ自然権を侵害しないで、自分自身の慰めと幸福とを求めて個人として行動するすべての権利註3 」のことである。その自然権の原理をルソーは、「一つはわれわれの安楽と自己保存に対して強い関心を抱かせ、もう一つは、感情を持ったあらゆる存在、主にわれわれの同類が死んだり苦しんだりするのを見ることに対して自然な嫌悪感をかき立てるのである。社会性の原理を導入する必然性もなしで、自然権のあらゆる規則が生じてくる註4 」と述べている。人間は自然の権利に基づいて、自身が持っている自由に従って自分自身のために判断する権利を持っており、また、人間自身の生命を維持するために判断力と理性をはたらかせることは最適の手段であるといえる。精神の権利に関する限りこの権利を放棄することはない。権利を放棄することとは、「他人がそのものに対する自分の権利から得る便益を、さまたげる自由をすてることである註5 」すなわち、自分の権利を放置したり譲渡したりすることではない。人間の自然である本性は、神によって与えられた理性を正しく用いるところにあり、その理性が命令する法則を自然法という。自然権について考えるにあたって現れた自然法であるが、自然法とは、理性によって発見された戒律すなわち一般法則のことである。自然法は、自然権で容認されている生命を維持する手段を除去するようなことや生命にとって破壊的であることを禁止している註6 。近代人は法という名の下に倫理的な知性があり、他の存在との関係で考察された存在に課された規則としてのみ法を認めている。したがって、理性を備えた唯一の動物である人間に自然の命ずる法の及ぶ権限を持っている註7 。注意すべきは、権利の概念を考える上で、権利と法は混合してしまいがちであるが、両者は区別されなければならないということである。「権利は、行ったりさしひかえたりすることの自由に存し、それに対して法は、それらのうちのどちらかに、決定し拘束するのであって、したがって法と権利は、義務と自由がちがうようにちがい、同一の事柄については両立しない註8 」とホッブズはいう。実際のところ現代において、法と権利を区別して考えるという意識を持つ人間は法律の専門家でもない限り存在しないだろう。一般的に、権利は法によって支配され左右し、権利と法の関係は切っても切り離せないものであるという意識の方が主流であるように思う。我々は自然権や自然法に触れるまで自然をほとんど知らず、法という単語の意味についてすら本質的に理解していないのであるから、ホッブズの意見のような意識を持つことはできず、よって自然法の定義について考たりもしくは自然権の定義について考えたりすることは困難なことである。ホッブズのいう自然法の中には正義・報恩・従順・許容・復讐・傲慢・公正など人間的要素が数多く含まれている註9 。正義については後程また述べるが、これら人間的要素を考察することは人間の本来の姿や人間の持つ自然について理解することになり、自然法や自然権をより理解することにも繋がるのではないだろうか。また、人間の持つ自然を理解することは権利の本質を理解することとなり、全てはどこかで連鎖しているのである。自然権や自然法についての捉え方は過去と現在では異なっている。我々人間は成長し、神についても理性についても常に批判的精神を持ち、自然的思考ではなく、より人間的な形で、自己保存によって権利の本性を捉えるようになった。時代の移り変わりと共に権利の性質や価値は移り変わり、権利の概念の範囲は次第に拡張され、それがまた今日の基盤となっている。
以上、自然権と自然法を用いることによって人間と権利の自然について、また双方の係わりについて述べてきたが権利の自然については前節で説明してあるので、本節では人間の自然について述べていく。先程も紹介したが、人間の自然とは本性のことを指し示し、人間の自由や平等、生命や身体の安全や所有に関する権利は人間の本性、理性から生まれたものである。人間が自由や平等を望むことは自然的行為であり、人間の本性である。人間と人間の欲による争いもまた自然的行為なのである。というのは、「人間の状態は各人の各人に対する戦争状態なのであり、このばあいに各人は、かれ自身の理性によって統治されていて、かれが利用しうるものごとで、かれの敵たちに対してかれの生命を維持するのに、彼の助けになりえないものは、なにもないのであるから、したがってそういう状態においては、各人はあらゆるものに、相互の身体に対してさえ、権利をもつのである註10 。」ここでも自然権、自然法で述べた生命維持に関する内容が含まれている。人間にとっての生は偶然ではなく必然であって、今日生存権としても残っているように生命は尊ばれるものなのであり、まれに自らが保持する自然を抑制できなかった者は非人間となり、他人を排除しようとするが、生命を尊ぶという意識そのものは昔も今も変わっていない。その生によって人間は自らに与えられた才能や機会あるいは財を活用しながら、それぞれの人生を最大限に良いものにしようと努める。けれども、ホッブズが人間の自然状態は戦争であるというように、確かに自然としての人間同士が対立するとなるとお互いが理性的、本能的に存在するため、価値観の相違や相手に対する不満でいっぱいとなるだろう。これを根拠付けるように「人間の本性のなかに、三つの主要な、あらそいの原因を見いだす。第一は競争、第二は不信、第三は誇りである註11 。」とある。自己保存をおこない個人の尊厳を大事にする現代人は常に自らを誇り自慢に思う。他人がこれを見た場合、この人間は自尊心がすこぶる強く、きっと利己的な人間なのであろうという認識を相手に対して持ち、少し距離を置くようになるだろう。また、人間の本性には競争心が存在するため、自分より才能が優れた者に出くわした際には敬意をはらう反面、内在的には闘争心をふるわせ競争し始める。自然として人間が自らの生活の実現を追求するとき、そこには常にエゴイズムや社会的対立がつきまとう。このように行われる人間の自然的活動においては、個々の能力、社会的地位や身分などの差異などから必然的に社会的理由、経済的理由によって不平等が生み出され、機会均等などが要求される。不平等は自然状態ではなかなか気づきにくいものであるが、平等ある者は能力や機会に恵まれ、それを生かして多くの富を得ることができるが、他のものはそのような境遇に恵まれず貧困や精神的乏しさに打ちひしがれるという決定的な相違から不平等の存在に気づくだろう。この問題を解決するのに役立つのは一定の平等を目指す公正、正義の観念である。なぜこれかと言うと、これら二つの観念は自由の要求に対しても平等の要求に対しても同等に応じ、多様な価値観を持ち、とりわけ自由と平等の双方の価値に対して位置しているからである。公正と正義については次節で述べることとする。
この節では、権利は保護されるべきものという絶対的概念から逸脱すべく、必ずしも権利を絶対的なものとして捉えることのない公正、正義の観念を用い、固定化されている権利の社会的概念に新たな視座を提示しようと思う。第一章、第一節で述べたように正義や公正といった要素は自然法の中に含まれている。各人はあらゆるものに対する権利を持ち、したがって、どのような行為をしても不正とみなされないのではないだろうか。正義の起源は信約の成立であるが、相互信頼による信約はいずれかの側に不履行についてのおそれがあれば無効となるため、そのようなおそれの原因が除去されるまでは実際に不正義はありえないのである註12 。不正義の定義は信約の不履行である註13 。正義の本性は有効な信約を守ることにあるが、「おろかなものが心のなかで、正義というようなものはないのだといい、ときには口に出してもいった註14 」その場合、「各人の保存と満足は、かれ自身の配慮にゆだねられているのだから、各人がそれに役だつと考えることを、してはならないという理由はありえず、したがってまた、信約をむすんでもむすばなくても、守っても守らなくても、それがかれの便益に役だつならば、理性には反しない註15 」というのである。信約のような人間の意志的な行為はすべて人間自身の便益のためであり、人間の理性には反するところはないように思われる。信約についての例を参考に権利の保護ついて考察してみると、権利を保護する際には権利を保護する側と権利を保護される側との信頼関係が重要となり、権利を保護しても保護しなくても、人間に何かしら利益を与える結果となるなら権利を保護しなければならないという固定観念は、まったくもって無意味なものであるといえる。そして、ロールズが提示する適正な分配上の取り分についての二つの原理を挙げると、第一に、各人は他の人間の同様な自由と両立しうる限りにおいて、もっとも広範な自由への平等な権利を有するべきである註16 ということが挙げられ、第二に、経済的・社会的な不平等が許されるのは、不平等が全ての人間の利益となると期待できる場合、あるいは不平等の原因となる身分や地位が全ての人間に平等に開かれている場合のみ註17 である とされている。この二つの原理は人間の自然との関連性が深いものであり、人間が潜在的に保持するところの権利は今日の権利を組織する一部となっている註18 。自然状態では人間は平等な自由を享受することができるといわれ、人間は相互の利害に無関心であるため利己的にふるまう。そして、与えられた目的のために何がもっとも有効な手段であるかの理解をする。現代社会でもこのようなことは実在し、今日、我々人間は互いへの関心が非常に希薄なものであり、自己の利害にのみ関心を払って生きている。この点で我々は道徳的人間ということができないものの、この存在は現代における平均的人間を提示しているとみなすことができるだろう。
権利を保護することは時代や文化、国境を越えてもはや説明する必要がないほど道徳的かつ政治的にも重要なこととなっている。実際に国家社会におけるフランス革命やイギリス革命の教訓や、アメリカ独立宣言のような国際的な宣言や条約あるいは憲法や法律は重要な性質を含み、その重要性は既に説かれ、周囲に影響を与えている。その影響は一方では政府や社会、共同体に向かって、他方では個人の価値や利益に向かって位置している。多様な権利が存在しているという事実は我々の権利を擁護してくれているように思えるが、すべてが対人間、対個人といったものではない。個人的権利については個人の思想や活動の自由あるいは生命を維持する権限を主とし、集団的権利についても触れ、そこから権利は複雑な構成から成立しているということを明確なものとする。
近代以降の権利の概念はまず何よりも、政治的にまた他人に抑圧されてはならないものとして個人の価値や利益を擁護し権利の保護を求めるものであった。けれども、権利が保護しようとする主体は現実の人間一人一人のみに限定されない。個人も権利を持つが一定の集団も権利をもちうるのである。しかし、このときこれらの集団は全体として、包括的なものとして、集団ではあるが一個人的存在として捉えられている註19 。一般的には、権利は個人の価値や利益を擁護するというよりも社会の中で独立して活動する一個体にとっての価値や利益を擁護するものであるという思考があるが、中でも個体としての性格が堅固である現実の人間一人一人をその保護の典型としている。その意識のもと個人の持つ価値や利益そのものについて考慮し、それを踏まえた上で、それに対する他人の活動の限界を定める。例えば表現の自由の場合、政治的・社会的活動における諸個人の多様な意見の表明が他人や政府によって抑圧され、無かったものとして扱われることなく自由に展開されることを保護しようとする。また法の下の平等の場合は、各人の地位や身分、能力の差異に関わりなく諸個人が平等な政治的・道徳的な扱いを受けてともに考慮されることを保障しようとする。福祉に関しては、個人の責任とすることができない何らかの原因によって最低水準の生活をも保護できない場合、その人を助け、貧しいがゆえに制限されていた個人の活動や生活を改善していこうとするものである。権利は個人の多様な要求とその実現のための基盤とされ、それぞれは個人の尊厳として捉えられている。権利の概念が個人の尊厳に基づくという考えは、権利の根拠を尊厳に求めるとすれば、それは、個人に権利があるとすればそれぞれが人間としての尊厳を持つはずであり、また個人に権利があるからには人間は権利を有していると考えることになるということである。まず人間は一定の社会の中で一人一人がかけがえのない人間としてではなく個人としてそれぞれの生活を営んでおり、この時個人が他ならぬ一人の人間であるという基本的な事実を示すもの、あるいはそれなくしては個人が人間として生存し、自分の一生を価値のあるものとして受け止められないというところの根本的な価値が尊厳である。権利とはその尊厳を表し、他人や政府に対する個人の要求を正当なものとし、他人や政府の不当な扱いから個人を保護する概念であって、それはどのような人間でも、個人として尊厳を持つ存在である限り保持しているのである註20 。しかし、権利と尊厳の間にそのような結合関係が本当にあるだろうか。例えば、同じ人間といえども、しばしば人間の自然を抑制することができず非人間となってしまった利己的な人間や、すべてを人のせいとする自己保存型の人間が見受けられる。これらの人間は自己抑制が欠如しており、自分が関心を持つ事柄になると我を忘れて欲望を追求するか、あるいは何かにつけて自己の欲求の実現を図ろうとする人間である。このような人間は尊厳を有していると言い難い。自己中心的な人間は現実に権利を保持し、行使し、そしてその権利を要求することができ、権利は全く尊厳を欠いた人間にも存在しているのである。もっとも、そのような人間は真正の権利を要求しているのではないように見えるし、あるいはその行動や態度からしてそもそも真の意味での尊厳を有してはいないと言えるかもしれない。また実際に尊厳を欠くのはその権利の行使の場面においてなのであって、権利の保持自体に関わる道徳的問題があるわけではない。自己中心的な横暴な人、他人の配慮の足りなさを難ずるだけの人間が道徳的存在であるとはいえない。これらの点は結局権利の保持とは無関係なのである。尊厳の有無は一人の人間にとっては確かに大きな問題であるが、権利の問題は、ある個人が一定の尊厳を有することよりも、むしろ他人が権利を尊重し侵害しないことを枠づけて当人の尊厳を保護することにある。権利と尊厳は重要な関連性を持ってはいるが、権利はおそらく尊厳自体とはまた別の根拠を持つ概念であって、それが特に個人を対象としているところで個人の尊厳に重なり合うのであろう。我々はこのような複雑な構造に分け入り、真正面から向き合う必要がある。
人間の枠から突出し独立した個人という存在は、個人を人間として捉える時よりも、はるかに権利と密接な関係を持つとともに、他人とも密接な関係を築き上げることになる。個人が持つ権利は社会や国家などの集団が持つ権利よりも身近なところに反映されやすい権利、あるいは個人においての利益を追求する権利であるといえる。仮に個人に権利を与えず人間やそれが成す集団にのみに権利を与えたとすると、当然のごとく権力的強者や弱者が現れ、時にそこで主従関係が結ばれ、例としての主人―奴隷という定義が確固なものとなる。主従関係を結ぶことについては個人と個人との相互的契約から成り立っており、権利の相互的な譲渡が人間のいう契約である註21 。 譲渡とは与える、あるいは売るということであり、契約の際、現金での売買または財や土地の交換、身体の譲渡のように権利の移行とともに引き渡されるものと、後に引き渡されるものとがある。また相互的信頼による契約もあり、その場合、この契約は協定または信約であり註22 、信約については既に述べた正義の性質にも関連のあるものである。他人の奴隷となる個人は自分を与えるわけではないが、少なくとも自分を売る。「契約のしるしは、表現されたものであるか推測によるもの註23 」であり、表現された契約のしるしとは何をあらわすかの理解をともなって語られることばであり、現在または過去のものであるか、約束としての未来のことばであり、一方推測による契約のしるしは契約者の意志を十分に証拠立てるもののことである註24 。個人が契約によって失うものは、自らの自然と自らの無制限の自由である註25 。自らの自然を失う損失は大きく、というのも自分自身の本性や理性を失うことは、自分が自分でなくなるということを意味する。そのため、やはり道徳的に、人間の持つ正義や公正の要素に基づき個人を人間として保全しなければならず、よって、自ら契約して奴隷となった個人の権利でさえ保護しなければならない。保護しなくてもよい場合は、当人が奴隷として満足している場合や当人が権利を保護されることを望まない場合のみである。したがって、弱者に救いの手を差し伸べることは正しい行為であると認識することは、時と場合によって大きな間違いとなり、権利を保護する際は慎重に検討する必要がある。
以上、人間の権利について主に人間と権利の根底にある自然権という考えを用い、多角的に見てきたが、実際のところ現実に存在している人間の動態は自然的であることが多く、常に人間の本性や理性というものが内在し権利はそれに基づくものとなっている。なぜ権利を保護する必要があるのかという単純な問いであったが、単に保護すべき保護すべきでないと決めつけるのではなく、その時々、出くわす場合によって人間の自然や権利の自然を基に対処すべきである。人間や社会は様々な性格を持ち、価値観や歴史の中にこの性格は深く組み込まれ常に移り変わっている。その中で特に人間や社会と強く結びついている権利の概念の変遷は目立って大きなものである。今日、権利は保護されるべきものとして認識されているが、このような意識は以前には存在していない。権利を保護することは自己保存型の人間や自らのうちに潜む自然という名の欲をコントロールできなかった人間、貧困に喘ぐ人々によって、さらに我々現代人によって強く望まれている。古来、権利というものの認識が一般的でなく、人間が権利という存在に気づいていなかった時、あるいはもっと昔に遡って、人間が未だ存在していないとき、権利を所有するものは山や木々のような自然と野生動物であった。その権利が人間の誕生とともに人間に譲渡され、人間とともに権利は発展していった。人間と権利の結束性より、人間の権利を保護することは自然を保護することと同義であり、人間の持つ自然や権利に隠された自然のようなメタファーに気づくことは自らの愚かさについて気づくことになり、人間と人間の争いを排斥するものとなる。自然権に基づく考え方として、本論文では人間の本性など潜在的なものを自然と規定するに至った。我々は多様な権利の存在を認識するとともに、多様な人間の存在を認識しなければならない。自然権や自然法などの本質について積極的にアプローチすることは現代社会を取り巻く問題への解決策としての一つの手段なのである。
参考文献
・ルソー 『人間不平等起源論』 原好男訳、白水社、1991年。 【脚注】
(註1)ルソー 『人間不平等起源論』 原好男訳、白水社、1991年、212-213頁参考。 >>本文へ
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