【竜二】
【進級論文】

異文化理解の可能性〜文化を見つめなおす〜
7281浦谷竜二
目次

第一章 文化コミュニケーション
第一節 文化とはなにか
第二節 コミュニケーションの役割
第三節 非言語コミュニケーション
第二章 異文化理解
第一節 文化的相対主義
第二節 異文化コミュニケーション
結論

異文化理解の可能性〜文化を見つめなおす〜
7281浦谷竜二


  序章


 最近では、人と自然の共生や環境保護などが訴えられている。しかし、一口に自然といっても、人によって自然の捉え方は多様である。なぜなら、人が自然と考えていてもそれは自らの主観を通して考えられた自然であるので、それらは多種多様であるのだ。故に人と人との共生の上に人と自然との共生があるのではないか。人と人との共生、グローバリゼーションなどの問題を考える前に避けては通れないのが「文化」という概念である。この場合では「異文化理解」などで「文化」という言葉がもちいられている。まずこの文化という言葉が持っている意味、その定義づけからはじめなければ、他の文化を理解することなどできない。なぜなら文化とは人間の環境そのものであるからだ。人の思考回路や言語などすべて文化の産物であるからだ。よってまず文化とは何ぞや、という問いから異文化理解という問題のスタートラインに立てるのだ。第一章に文化の自らの定義づけを行い、さらに文化と非常に深い関わりをもつコミュニケーションについての言及を行う。さらに第二章では他の文化の捉え方として文化相対主義という考え方につて考え、そこから異文化理解について言及することにする。



一章 文化とコミュニケーション


 文化とは非常に幅広い概念である。ここで私がもちいている文化は「芸術文化」や、「文化人」などで使われている文化のことを意味しているのではなく、生活様式や言語など、いわば人間の生活環境そのもののことである 。さらに私たちは文化なしでは人間として存在できないのだ。逆に考えれば、私たちは文化による制約を強いられている。更に我々は言葉なしでは他者に自分の気持ちなどを伝えることができず、故に言葉の範疇の中にしか思考回路はないと言える。このような現実を知ることから「異文化理解」という問題について考えることができるのだ。一節で文化という幅広い概念を見つめなおし、二節ではコミュニケーションという行為を言語という一面から考察し、三節で非言語コミュニケーションについて考えていく。
一節 文化とは


文化とはきわめて広い範囲のことを示しており、歴史や思想、芸術や伝統なども文化の一部である。人類学者ホールによれば「文化とは一個の人間集団の生き方、すなわちかれらが身につけた行動の型や態度や、物質的なものの全体を意味する。 」と文化の定義づけをしている。
文化を研究する人々の考える文化とは、芸術作品などに代表される文化、あるいは儀式に代表される精神文化、また歴史や、文学に代表される教養としての文化、などよりもはるかに広い意味を持ったものである。
つまり文化とは、〔文化人〕という言葉に代表されるような文化だけでなく、過去から伝統として引き継がれてきた生活様式や思考回路、さらに行動様式の総体そのものにほかならない。言い換えると、人間の物理的環境と精神的環境を形づけ、我々の行動や反応の仕方を規定していくものなのである。
この内容に、他の文化に一度でも触れたことがある人ならば容易に納得できるのではないだろうか。というより、他の文化に触れたことがある人にしか理解しがたいのかもしれない。ホールは「自分自身の文化ほどみえないものはない。長年にわたる研究の結果、私はいまではわれわれの本当の仕事は、外国の文化を理解することではなく、自分自身の文化について理解を深めることにあると信じている。 」と述べている。我々は他との関係において自己を形成し、自覚している。
自分という存在があり、他者という存在があり、その間の関係が存在しているのではなく、自分と他者との関係において、自分という存在があるのだ。自文化を知るには他文化を知らなければならないのだ 。先ほども述べたように、文化とは簡単に言えば人間そのものなのだ。我々の思考などは周りの環境によって感化されている。文化とは過去の人間の生活などの全てを蓄積してきたもので、人間が作りだしたものであるはずなのだが、しかしそれによりわれわれは文化の制約をうけているのだ。よって自文化しか知らない人は、自分が自文化による制約をうけていることにすら気づかず、そもそも文化という概念をうけいれることはできないであろう(さまざまな世界の情報が瞬時に手に入る現代でそのような人は稀ではあるが)。他文化に触れ、初めて自文化の特徴などを知ることができ、理解することが可能になる。
だからこそ、ホールは自らの研究は異文化理解としながら、終着点は自文化の理解を深めることなのだ、と述べているのだ 。
そして異文化理解の目的もそこにあるのだ。
他の文化を知り、自らの文化についての理解を深める、そこから他の文化を理解し、互いに協力することが可能になる。このことをわきまえないで、さらに自分の文化を理解したつもりで他の文化を理解することなど不可能なのだ。



二節 コミュニケーションの役割


第一節では、他文化を知ることにより自文化が見えてくることが理解できたと思うが、実際、他者との交わりによって生じるコミュニケーション行為とはどのようなものなのだろうか。
コミュニケーションとは、言葉を介してのみなされるものなのだろうか。うなずきや目くばせといった言葉以外のメッセージも、相手に何らかの意味を伝えていることを考えると、そうではないのだ。コミュニケーションとは二人以上の人人間が、互いの行動に対して、意味を見出しながら反応していくプロセスなのだ。
別の言い方をすれば、意味が見出せるなら、いかなる行動もメッセージとなり、コミュニケーションのプロセスは進行していく 。全ての人間は、無意識のうちに、所与の言語と日言語による行動を媒介として、個人の内部にコミュニケーションの仕方を形成していく。
つまり、人は例外なく、自分の所属する集団が共有する物の見方や感じ方などを身につけていく。
アメリカの言語研究者のサピアの言語論思想を見てみたい。彼は「人間は、物質界にのみ在るのではなく、普通考えられているように、社会的活動の世界にのみ在るのでもなく、その社会の表現手段となっている特定言語の大きな支配を受けている存在である。人間は本質的には言語に依存することなく現実に適応しているとか、言語は伝達や内省という特定の問題解決のための付随的手段に過ぎないと考えるのは、まったく幻想にすぎないのであって、現実世界とは、概してその集団の言語習慣に基づいて無意識のうちに築き挙げられたものなのである。
社会が異なれば、その世界も相違したものとなるのであり、単に同一の世界に違ったレッテルがつけられたものというのではない。我々は、あらかじめ一定の解釈を示唆する共同体の言語習慣に依存しながら、一般に、見たり、聞いたり、経験しているのである。 」と述べている。
つまり我々は物質世界に在るものや出来事を、言語世界を通して、認識世界にはいってくるのだ。言語世界はいわば色眼鏡のようなものであり、これが異なれば、見えてくる世界も異なるのだ。例えば、イヌイットの言葉には「雪」の状態を表す単語が50語以上存在している。我々日本人には単なる「雪」にしか見えないものでも言語世界が異なるイヌイット人の目にはまったく違うように見えているのかもしれない。このことがサピアの理論を実証しているのではないだろうか。

やはり我々は言語という世界を通してしか、我々の認識の世界には写ってこない。ゆえに我々は言語によってものが見えるようになり、聞こえるのだ。ホールは文化とはコミュニケーションそのものだ、と主張しており、これには異論を唱える研究者も少なくないが、文化と言語は密接に関わりあっているのだ、という事実に異論を唱える者はいないであろう。



三節 非言語コミュニケーション


 前節でも述べたように、コミュニケーションとは複数の人間が互いの行動に意味を見出しそれに反応していくプロセスそのものなのだ。さらに他者との相互関係において生じた行為がすべてコミュニケーションになるということは、実はこのプロセスが、人間の意識とはかかわりなく進行しているということをも意味している。
我々の行動に誰かが意味見出せば、我々が意識しようといまいと、意図を持とうと持つまいと、コミュニケーションは成立するわけであって、我々は行動しないという方が不可能なのだ。人は他者から受け取った行動を自文化のやり方で解釈している。その文化はまた、人々が共有する意味の範囲をも規定しているため、ある文化では意味があることも、別の文化では無意味なこととなってしまう。
つまり文化は意味に影響を及ぼすばかりでなく、実はどのような行動をどのようにうけとるのか、の選択の作業にも大きく関わっているのである。このようなことを、我々はほとんど意識していない。しかし、意識してようがしてまいが、どんな行動でも他者による意味づけが行われれば、コミュニケーションは成立するのである。
この行動とは、五感を通しての全ての行動である。微笑んだり、相手を凝視したり、腕を組んだり、香りの強い香水をつけたり、全てが行動なのである。よって、このコミュニケーションの考えに基づけばほとんどが非言語コミュニケーションなのだ。
自分がなにも行動を起こしていなくとも、他者がそれに意味を見出せばコミュニケーションになり、自分が気づいてなくとも、他者に不快な気持ちにさせることがある、ということを我々は常に意識しておくべきだ 。
同共同体内でも、自分の意図していることと、他者がどう受け止めるかについては、違いがある、よって他の文化に属する人たちとコミュニケーションを行う際の難点はここにあるのだ。
コミュニケーションにおいて、言語を媒介として行うコミュニケーションより、言語以外のコミュニケーション、いわゆる非言語コミュニケーションが占める割合のほうが格段に大きいことは容易に理解できるだろう。
すなわち、この非言語コミュニケーションの重要性を理解していなければ、異文化コミュニケーションを円滑に行うことなど不可能なのだ。



二章 異文化理解


前章では、主に文化とはなにか、やコミュニケーションとはなにか、など非常に幅広い概念について述べてきた。
ここまで、読まれた人には理解してもらえていると思うが、前章で述べたことは、いわば、異文化理解の基礎のような部分なので、きちんとおさえていかなければいけないポイントであると、私は確信している。
そこで、この章では他の文化を考える際に、もっとも重要なのは、他の文化をどのように捉えるか、を意見していきたい。そこで私は文化的相対主義という考え方を提示し、そこから、異文化理解への一歩をふみだすことにする。
一節で、文化的相対主義という他文化の捉え方を考察し、二節の異文化コミュニケーションへとつなげていくことにする。


一節 文化的相対主義


 自らの文化や他の文化を考え、理解していくうえで、有効な概念であるのが文化的相対主義という考え方である。私の文化においての常識や標準というのは、他の文化においての非常識でありうる。
つまり、文化において優劣などなく、もはやそれについて議論することすらここでは避けることにする。
他の文化の標準を自らの文化の標準において否定することはせずに、他の文化の内側からそれについて議論すべきである 。
すでに前章で述べたように、我々が当たり前だと思っていること、我々の標準や常識などはすべて周りの環境、つまり文化によって形成されたものだ。
よって、他文化に生きる人たちと、標準や常識が180度違う、ということも十二分にありえる話である。
しかし、ここで私が言いたいのは、他文化を自文化の標準や常識などに照らし合わせて、他文化を判断することは間違っている。
異なる文化には異なる自然、環境、歴史、言語などが存在し、それらから形成された文化も無論異なっている。
それを自文化から得た標準にのっとって判断するのは、賢明ではないのだ。F.A.ハンソンもこのように述べている。「まず何よりも、制度というものは内側から理解すべきものである。なぜなら、文化現象の含蓄的意味はいかなるものであれ、それが前提としており、また、包み込んでいるその他の制度、信念、習慣といったものの内に見出されるはずのものであるから、明らかに、含蓄的意味はその文化の文脈のもとで理解しなければならない。言うまでもなく、これが文化的相対主義の原則である。つまり、文化はいかなるものであれ、それ自体として理解すべきであって、他の文化から持ち込まれた概念や基準によって理解してはならない、ということになる。 」
さらに他文化をその内側から理解しなければならない、と述べてきたわけだが、それはかならずしも同意しなければならないわけではない。例を挙げよう。古代のアズテック人たちは人間を数多く人身御供としてささげていた。我々はこのことをなんて馬鹿な行為だ、とあざ笑うかもしれない。それは自文化にはそのような、行為は決して標準ではないからだ。しかし、ここでこの問題を内側から理解していきたい。アズテック人たちは生け贄の血は燃料であって、それなくしてはこの世界はたちまち熱烈な破局を迎えることになる、というのが彼らにとっての常識であり、世界の破局を防ぐためにどうしても必要な手段として、人身御供があるのだ、とアズテック人は考えているということを知れば、彼らの行動を理解することはできるであろう。しかし、我々はアズテック人たちの世界の破局に対する考え方に同意することはできないと思われる。ここで、私が言う、他文化に同意することは必ずしも必要ではなく、理解することが重要なのだ、という意見に理解を示してもらいたい 。
この節では文化的相対主義に対してのさまざまな問題を避けて議論を行ってきた。この相対主義には、人殺しを許容している文化すら否定できないのか、などの問題も多々存在している。しかし、現代の研究ですらまだ答えのない分野であるので、あえてそのような難点を避けて議論してきたことに対しては理解を示してもらいたいと願っている次第である。



二節 異文化コミュニケーション


前章ならびに前節でのべた通り、我々が主に他の文化について知るとき、距離の問題などの故に言葉に頼らざるをえない。
加えて他の文化の言葉とまったく同じ意味をなす言葉が違う文化には存在しないことも多々ある。しかし、ここで異文化への理解を諦めるのではなく、他の文化の内側から理解しようとする態度が必要なのである、ということは理解していただいたと思っている。
ここでもう一度、異文化間のコミュニケーションについての議論を深めることにする。異文化間コミュニケーションに対しての難点を再確認していく。人間は、あらゆるメッセージを、決して区別なく取り込んでいるのではなく、選択して受理していることは前章で述べたとおり、その選択は文化によって左右されている。
さらに、異文化間コミュニケーションでは、メッセージの伝達手段ばかりでなく、その解釈の方法までもが、文化によって異なっている、ということが最大の難点であると言えよう。
つまり、文化背景が異なることによって、メッセージの送り手が意図したもの、あるいは意図していなかったものと、受け手が意味を見出したものとの間に食い違いが生じる可能性が非常に高いのである。
どの行為がどのような受け止めかたをしたのか、というような答えは文化の中にある。これをここでは価値観、規範と呼ぶ。
異文化と接触する際、我々はこれを避けて通ることはできない。なぜなら、この価値観や規範を理解することが、異文化間コミュニケーションを理解するうえで、最も重要な鍵であるのだ。
この価値観、規範とは。良いか悪いかを判断する判断基準となるもので、人間の行動を、ある特定の方向に至らしめるものである。
このため、価値観、規範は、文化の根幹をなしている。つまり、ある文化に所属する人々にとって、どのような行動が良く、どのような行動が悪いかは、この規範によって決められているのだ。しかし、この規範も、ひとつの概念であるから、直接これを認識することはできない。これは、あくまでも、人の行動を通してわかりあえるものである。
故に、ある文化の規範を知るためには、その文化に属する人々の間で繰り返し使われている、言語、非言語コミュニケーションを通してその人の行動パターンを見つけていくことが重要なのだ。



結論


 異文化間コミュニケーションにおいて、他者を理解することが重要であると、これまで述べてきたわけだが、本当に他者を理解することなど可能なのか、と感じている人も少なくない。相手の考えなど分かるわけないじゃないか、と思っている人もいる、と思う。
異なる文化に属するA、B、Cという人物を仮定する。Cの考えが分かるのだ、と主張するAという人物がいる。Bという人はAに対して「Cの考えなどAに分かるわけないじゃないか」と述べた。Bが述べた内容は【AにはCの考えが分からない】ということだが、この内容はBにはAの考えが分かっていなければ発言できない内容である。
これは異文化間コミュニケーションの中心的なテーマである。つまりこの問題は異なる文化に属する人々を本当に理解できるのか、という問題である。我々は他者など理解できない、などと諦めるのではなく、理解しようと努力すべきなのだ。さらに第一章で述べたように、異文化理解の最大の目的は自文化を理解することにある、ということも忘れてはならない。
他者と接して、自分という存在が見えてくる。同じく、文化というものは我々に密着しているもので、自文化ほどみえないものはない。しかし、水中に顔をつければ、誰もが意識していなかった空気の重要性に気づくのである。
同様に人は、異文化にふれることによって、はじめて、自文化がみえてくるのだ。それにより、自文化への理解を深めることが可能になるのである。



参考文献

クラウスペーター・ケピング 『他者へのまなざし』 松戸行雄訳、新泉社、1998年。

F・アラン・ハンソン 『文化の意味』 野村博訳、法律文化社、1980年。


エドワード・T・ホール 『沈黙のことば』 長井善見訳、南雲堂、1966年。


笹口健 『文化とは何か』 近代文芸社、1997年。


平林幹朗『サピアの言語論』 けい草書房、1993年。


古田 暁、石井 敏 監修『異文化コミュニケーション(改訂版)』有斐閣、1897年。






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