未来へつなぐ自然〜社会変革に秘められた可能性〜

7282内堀満莉恵

目次


序論

第一章:「社会」をつくる人間
 第一節:群れる人々
 第二節:争う人間
 第三節:「社会」で生きる人間

第二章:人が自然に手を出すとき
 第一節:破壊
 第二節:保護
 第三節:人に返る痛み

第三章:これからの自然との付き合い方
 第一節:人として
 第二節:新たな共同体として

結論

参考文献表

序論

 現在我々の生きる地球上には、数々の問題が山積している。環境問題もそのうちの一つとして我々の目の前に大きく立ちはだかっており、その解決への道は果てしなく遠い。一部の人々が昔から人間の行き過ぎた行為に警鐘を鳴らしてきたが、社会を構成する大部分の人々はそれに耳を傾けることなく、自らの利益を求め続けてきた。これは我々の社会構造が、社会学者テンニエスの述べるところのゲマインシャフト的社会からゲゼルシャフト的社会に移行していったという背景がある。「ゲゼルシャフトにおいては、先験的・必然的に存在する統一体から導き出されるような活動は行われない。したがってまた、活動が個人によって為されるかぎり、その個人に内在する統一体の意志や精神を表現するような活動や、その個人自身よりも彼と結合している人々のためになるような活動は行われない。註1  」とあるように、ゲゼルシャフト的な社会において人間は自己のために活動するといえる。だが近年環境の異変が目に見えるようになり、人々の関心が急激に集まってきている。そして人々はさまざまな「自然環境を守る」と言う名目でさまざまな活動をしている。だがしかし、いくら人々が多くの団体を作りそれぞれが「環境を守ろう」としても、何世紀にもわたって蓄積された破壊の痛みが拭えるわけではない。なぜならゲゼルシャフトはゲマインシャフトと同じように平和に隣り合って生活してすんでいる人々の集まりをとりあつかうが、ゲゼルシャフトでは、人々は本質的に結びついているのではなく、本質的に分離している註2  ために、あらゆる活動は統一性のない活動となり効果的に問題解決に作用しないからだ。そこで私はもっと大きな人々の集団である「社会」が環境問題や、その他の地球規模の問題に立ち向かうに当たっていくことの必要性を感じた。しかし、ゲゼルシャフト的な社会構造のままでは、結局人間の自己中心性は拭うことができず、あらゆる活動は自分のための活動であるとしかいえない。問題解決のためには「本来的あるいは自然的状態としての人々の意志の完全な統一から始まる 註3 」と理論付けられているゲマインシャフト的な社会構造が必要となってくる。ゲマインシャフト的な共同体の例としてしばしば家族があげられ、その関係は信頼に満ちた親密な水いらずの共同生活を送るものであるとされている註4  。この論文では、ゲマインシャフト的な社会、すなわち「家族的共同体」として人間がこれからも自然と共にあるための生き方を提示する。

第一章:社会をつくる人間

我々人間は「社会」という共同体をつくり生活を営んでいる。だがしかし、なぜ人間はわざわざ他者と生きるためのこの「社会」を作り出したのか。それを本章一節にて明らかにした後、現代社会にはびこる諸問題の原因ともなる人間の争いに着目し、環境問題もそれらの一端であることを二節で証明する。そして三節では、なぜ人間は同じ人間と争ってまで社会の一員であろうとするのかを述べた後、社会において責任を持って行動することが、人類の将来にとって非常に重要であるということを示す。

第一節:群れる人々

 まず、本節では「社会」というものを根本的に見直し、本質を知るために、なぜ人はそのような共同体を作り生活するのか、という疑問を解明する。
ゲゼルシャフト的なこの「社会」では人々はそれぞれ一人ぼっちであって自分以外の全ての人々に対しては緊張状態にあり 註5 、人間が生きるということはまさに孤独との戦いとも言える。それゆえに人間は常に孤独から逃れようと自己の存在を主張しようとする。だがしかし、自分の身の回りの動物や植物に何らかの行動を起こし、自己の存在を主張したところでそれらは言葉を持たないために自分の存在について何も語らない。また、人間がそういった「自然」に自己の存在を残そうと、それらを破壊しようとしたり、守ろうとしたところで人間一人の力ではたいした影響力は及ぼさない。このことから、人間は一人で居る場合常に孤独と言え、自己の存在を主張する場を持たないと言える。一人で居ることによって、他に自分が「存在している」ということを表すものが無いために、自分がどのようにあるのかが分からず、自分の存在自体が不確かなものに感じてしまう。
また、「人間を社会的に結び合うものにするのは人間の弱さだ」註6  、とルソーが言うように、「人間の弱さ」も社会を形成する要因となっている。それは肉体的な弱さもあるが、精神的な弱さの関係も大きいと言える。こういった「弱さ」を補うためにも、人間は社会をつくる必要があったのだ。
そこで人間は自分の存在を分かりやすく簡単に証明するための場として「社会」をつくった。多数の人間を集め、共に生活し、共通の言語や行動様式をその共同体の中に作ることで、他者や自分の存在証明の道具とした。そうすることで、社会にいる他者が自らを映す鏡の役割を果たし、自己の存在を容易に確かめることが出来るようになったのだ。このようにして、人間は社会をつくることによって孤独から脱したようにも思える。だがしかし、我々が作り上げた「社会」は一時的に作られた外見上の共同体であり、永続的な共同体とは言えない。
永続的な共同体とは、人々が相互的な信頼と信用をその関係の中に自然に持っている共同体であり、いわば家族のような緊密な関係が形成された共同体である 註7 。こういった関係の間には了解が存在している。この了解は一体性と同一の意味を持っており 註8 、つまりは他者との緊密な関係が一体性を生み出すといえる。この一体性が人間を孤独から解放し、さらにはそう簡単に離れることのない持続可能な共同体を作り出すのだ。
一方一時的な共同体において、人々は一見結びついているようにも思えるが、実は本質的に分離している。なぜなら多くの人々が生活する中では、個人個人の繋がりは極めて稀薄なものであり、それゆえに、「孤独から脱した」とは言えず、ただ「孤独を和らげただけ」だと言える。社会は結局のところ自己の存在を曖昧なものとしているのだ。それゆえに、「社会」には様々なほころびが生じ、「社会」には動揺が絶えなくなったのだ。


第二節:争う人間

  人間は常に何らかの理由で争っている。それが規模の小さな、例えば「個人対個人」のものであろうが、規模の大きな「国対国」といったものであろうが、常にどこかで争いは起きており、「争いの無い世界」などというものは実際に存在し得ない「夢物語の世界」であるといえよう。心理学者のフロイトは、人間には保持しようとする衝動と、破壊し殺害しようとする衝動の二種類があり、どちらの衝動も人間に無くてはならないものだとしている註9  。それゆえに人間は攻撃的な性格を取り除くことは出来ないのだ。他の動物も生きるために競い争っているが、人間は少し違っている。動物は、自らの生息する空間の食物や縄張りを巡って、異種間や同種間で争っており、この事は基本的な生を満たすための行動であるといえる。だが人間の場合そこに経済活動などの社会的な活動が加わり、さらには「自己の尊厳を守るため」などといった“思考”が加わる。これらはまさに人間独持のものといえ、他の生物からそれを見出すことはできない。ゆえにこういった活動や思考は「人間らしさ」とも言えるのだが、これが時に争いを招くこととなる。というのもこうした「人間らしさ」こそが、我々の「社会」を支える柱であるがゆえに、それぞれの人々の社会的な活動や思考の中で衝突が起こった時、その柱がぐらつき社会に動揺(つまり争い)が生じてしまうのだ。それゆえに、些細ないさかいから起こった争いでも、世界全体を巻き込み、何千何万もの犠牲者を出す大戦争になることも間々ある。
また、環境問題などの現在世界を取り巻いている諸問題も、こうした争いの原因や結果となって現れている。例えば、環境資源はその利用を巡る人々の争いを引き起こし、また争い(ここでは戦争を指すこととする)は人を攻撃すると同時に期せずして自然環境もまた、攻撃している。このように自然環境は、人間の争いの原因ともなり、被害者ともなっていることが分かる。
 だがしかし、社会における争いと社会の発展は決して無関係とは言えず、歴史を見ても、争いが起こることでそれまでバラバラに細分化されていた社会と社会がまとめられたという事実がある。社会がまとまることによって、その社会を支配するものが力(暴力)から法(権利)へと変わっていった。この事は一見力の強い者が一方的に弱者を支配する社会から、全ての人が平等な社会へ変化したようにも見えるが、実際は目に見える支配から目に見えない支配に変わっただけであるといえる。なぜなら、法を定めるのはごく少数の限られた人間であり、結局はその人間たちにとって都合のいいようなものでしかないからだ。このような法(権利)の不平等は争いを生むこととなる。以上のように、人間は争いなくして生きることはできず、社会は数々の争いと共に発展しているといえる。

 
第三節:「社会」で生きる人間

 「社会」において我々はどのように生きるべきなのか、ということはどの時代においても大変大きな課題である。なぜなら、一節でも述べたように「社会」とは、人間にとって自己の存在を証明する場であると言え、そこでどのように生きるかは自己の存在をいかに証明し、明確にするか、ということに繋がっている。そのため、どんなに争い合うものであったとしても人間はどこかの社会に所属し、その中で生きている。たとえ一定の社会に留まらずに生きていたとしても、何らかの形で社会と接触しながら生きているのだ。「社会」においては、争うことも自己の存在証明であるといえる。だがしかし、人間はこのまま争い続けるものであって良いのだろうか。そうであってはならないと私は考える。なぜなら、いくら二節で述べたような破壊や殺害しようとする衝動が人間に無くてはならないものであったとしても、このまま人間が自らの衝動のままに争いを続けるのであれば、恐らく人間に未来は無いであろう、と考えているからだ。つまり、この衝動を自ら抑制し、過去を振り返ることでこれまでに味わった惨禍を思い出し、未来のために今何をすべきなのか、社会全体で考えなくては我々の子孫はこれから先この地球で生き残ることが出来ないということだ註10 
人間は自らの責任で物事を考え行動することの出来る創造的な生き物だ。オルテガも「人間的な生は責任を問われるものであり、何かを考えるとき自己の責任のもとに考えたときだけ、その考えは人間的であると言え、何かをする場合もそれが自分にとって意味を持ち、それを自分が理解しているときだけ、その行為は人間的なものである。註11 」 という風に述べている。
 創造的であるということは、新しいものを作り出せるということであり、このことから人間は多様な可能性を秘めた存在であるといえよう。ただし、ただ新しいものを作り出すだけでは、周囲に害を及ぼす恐れもある。それゆえに、人間は自らの責任で行動する必要があるのだ。創造的な人間が自らの責任のもとに考え行動するということは、自らの行為が周囲にどのような影響を及ぼすかも考慮し、生きていくことが出来るということだ。一人ひとりが周囲への影響を考え、他者を気遣うことで争いは避けることが出来る。つまり責任が衝動を抑える役割を果たし、結果として争いを抑制することとなるのだ。このようにして、社会を構成する各々が自己の責任を重く考えながら、行動する、ということを実践しなくてはならない。そうすることで、我々の社会は新しい段階へ進むことが出来るのだ。


第二章:人が自然に手を出すとき

 人間はこれまで様々な形で自然に手を出してきた。私はここでそれらの形を大きく、「破壊」と「保護」に分けることとする。まず人間は自らの生活を豊かにするため、自然を利用(つまり破壊)し始めた。だが、その自然はどこまでも利用できるものではなく、限度があるということを人間たちはその過程で知った。そして豊かな人間が増えたころから、限りある自然を守ろう(つまり保護しよう)とする動きが活発になり始めた。このように自然は人間の都合に翻弄されているといえる。この章ではその二点について述べた上で、それらの影響を受けた自然が我々に与えた問題について言及する。

第一節:破壊

 先ほど述べたように人間は自らの生活を充足させるために自然を利用するようになった。それは人間が発展していく上ではやむを得ないことであったのかもしれない。なぜなら、人間の所属しているそれぞれの社会が人々の消費を増大させるシステムを構築し、人間はそれによってただ単に生命を維持するということから他のものに、つまりは文化的、社会的な欲求を満たすためになったからだ註12  。人々はこういった発展を歓迎し、また望んでいた。だから、自らが発展するために利用できるものは何でも利用しようと自然に手を伸ばしたのだ。農業を例にとって見ると、初めは自分あるいは自分の家族などの身近な者のため、つまりは極小さな共同体のための必要最低限な食物を生産するために、自然に手を出すようになったと言える。だがこの時は、食物を得るために自然から土地を借りていたのであって、それ以上に手を加えることは無かった。しかし、時が経つにつれその共同体はどんどん大きくなり、「社会」と呼ばれるものになった。そこにおいては、社会全体に食物を供給することが必要となったために、農業を拡大する必要性もまたあった。多くの生産を得るために人々は農地を拡大し、農薬を作り、機械で田畑を耕すようになった。それはつまり自然にさらに多くの、しかも自然にとって有害であると言える、手を出すようになったことを意味している。
 以上のように、最初は万が一自然を破壊してしまったとしても、自然の回復力が破壊のペースよりも早かったために、人間は「自然には自己回復力があるからちょっとくらいは大丈夫」と考え、自然に対してどんどん手を加えていった。誰もが「ちょっとくらい」という気持ちで自然を破壊し続けた結果、今日における環境問題を引き起こすこととなったのだ。
 現在環境問題は地球規模となり、我々人間はその原因が自分たちである、という現実に直面し、一部の人々は躍起になってこの問題を解決しようとしている。だがしかしその一方で、未だに我々の消費行動はとどまることを知らず、それどころか増大しているようにさえ思われる。この原因としては、「社会」に満ち溢れている格差が挙げられる。生活水準が下級な人々は、その水準を上げようと環境のことなどお構いなしに自分たちの利益を求める。さらに、生活水準が上位にある人々であってもより上位を求め、更なる消費をしている。
このようにして、我々の破壊活動は人間の飽くなき欲求から生まれ出たものであるといえる。


第二節:保護

 破壊が続いた後、我々を取り巻く自然環境の危機を察知した人々は「自然を守ろう」と叫ぶようになった。これは、それらの人々の生活が裕福になり、ある程度のものを手に入れたと言う余裕から生まれた影響であり、一種の“流行り”であると私は考えている。かくして人々の手によって様々な環境保全や保護のための思想や運動が生まれた。ここで例として、「グリーン・コンシューマリズム」という考え方を提示する。「グリーン・コンシューマリズム」とは、環境に良くて、しかも可能な限り使って満足できるもので、魅力的かつ値段の妥当な製品・サービスを消費者として購入する運動である註13  。この運動は、『グリーン・コンシューマー』という本が1988年にイギリスで発売されたときに大人気になった。ここから自然保護が一種の“流行り”となっていることがうかがい知れる。
 また、保護をすることがかえって環境を破壊していることもある。例えば、ある地区を保護地区とすることで、それまでその土地に何の関心も持っていなかった人々が、「保護指定を受けるくらいの土地ならば、行ってみよう。」という風に急にその地に関心を持ち、「観光客」としてそこの土地に押し寄せることがある。そのために、そこへ行くための道が新しく作られ、多くの観光客が自動車に乗って排気ガスを撒き散らしながらやってくる、という自然にとってはこの上なく迷惑であろう事態に発展する。このようにして、自然を守るために良かれと思って行ったことが、真の目的に反し自然を破壊してしまう、と言う悲劇に繋がるのだ註14 
 このように環境保護のあり方には様々な見方があり、自然保護を訴える主張の中にも相反する主張を唱えるものがあることも確かだ。このように、数多くの自然保護への取り組みはあるものの、「こうすればいい」という明確な指標が無いために、結局のところ個人個人もしくは諸団体による一部の保護活動に留まっているといえる。さらに本節の初めにも述べたように、こういった活動は比較的裕福な人々もしくは団体によって行われていることであり、全世界の全人類にいえることではない。このようにして、まとまりの無い保護が行われても結局のところそれが環境にとって真に有益であるかも分からないまま、ただの自己満足のために行われているとしか言いようが無い。


第三節:人に返る痛み

 この「痛み」についても破壊から返って来るもの、保護から返って来るものがある。破壊からの「痛み」については、一般的によく言われる地球温暖化や土壌や水の汚染などがあげられる。これらは世間に大々的に取り上げられ、多くの人がそのことを認識していると考えられる。こういった「破壊からの痛み」が大々的に取り上げられる要因としては、それが目に見えて分かるもしくは体感できるものだから、ということが挙げられる。
 だが、保護から来る痛みについては、ほとんど目が向けられない。この原因は、破壊から来る痛みが可視的なものであるのに対して、保護からくる痛みは不可視であり、さらにすべての人々に還元されるものではないからである、と言うことが考えられる。保護からの痛みとしては、「自然の利用に偏りが現れた」ということを示すこととする。例えば、A国は自国の自然資源を守りたいがために、B国から自然資源を輸入する。だがこれによってB国は自国で利用できる範囲の自然が少なくなる上に、いくら利用できる範囲と入っても環境が破壊されてしまう。そこに、A国が環境問題を防ぐための努力をもっとするようにB国に呼びかける。だが、B国にはそのような事に気を配る余裕が無く、自国の発展のために利用限度以上の自然を利用するようになる。このような関係は現在の先進国と発展途上国の関係に当てはめられる、と私は考えている。そして、例に挙げたような事態を引き起こす背景には、自分の身近な自然さえ守れれば、他は利用したとしても自分たちの問題にはならない、と言うような自分勝手な意識があると言える。このような意識は環境問題のみならず、人間同士で争うような他の重大な問題をも引き起こすこととなる。このように、破壊からだけでなく、保護をすることでも人に何らかの害がおよぶ、ということを我々は忘れてはならない。


第三章:

自然環境は我々人間が生きていく上でも、他の動植物が生きていくうえでも必要不可欠なものだ。だが人間の身勝手な行為のために既に多くの動植物が絶滅したり、絶滅の危機に瀕しているという事実が存在する。そんな中で、自然の危機を察知した人々が自然を守ろうと数々の行動を起こしているが、一向に自然環境は悪化していくばかりである。そこで私は我々人間はどのようにしてこの地球の共有財産である自然と付き合ってゆけば良いのだろうかという疑問を持った。本章においてはこの問いの答えとして考え出した答えを人と、新しい共同体という面から提示する。

第一節:人として

 現代人の価値観はわずか二、三世代前の人々よりも悪化していると言え、さらにそれらの世代と比べて我々現代人はより自己中心的で、私生活主義で、精神がさもしい存在となっているように思われる 註15 。この原因としては、ゲマインシャフト的な村落のような共同体の衰退とゲゼルシャフト的な都市のような共同体の隆盛が考えられる。序論で述べたようにゲゼルシャフト的な社会において、人々は個人自身の利益のために活動する。だが、一章第三節でも述べたように、人間は自らの責任で物事を考え行動することの出来る創造的な生き物である。そのため、現在起きている問題に対し誰もが自分にも責任のある問題なのだ、ということを認識し、さらにはその問題を解決するために自ら行動を起こす必要がある。環境問題に対してももちろんそのような態度をとらなくてはならない。だが行動に移す際に気をつけなくてはならないことは、ある一つの視点に偏ってはいけないということだ。何にでもすぐに納得するのでは無く、既存の考え方に「本当にそれでいいのか」という疑問を投げかけることも時には必要であり、そうすることで、人間はより人間らしい創造的で知的に考え、行動することが出来る。自然に対しても、「利用方法は本当に今のままでいいのか」、や「このような保護の仕方が真の保護となっているのか」という風にまず疑いの目を向ける必要がある。
 もはや人間の技術によって環境を良くする事が出来る、などという考えは人間の過信に過ぎず、人間の生き方、社会のあり方そのものを変える必要があるのだ。人間が真に有能な存在であるというのなら、過ちに気づいた今、すぐさまその行動を見直し、改める必要がある。これからも、人が自然と共にこの地球上にあるためには“今すぐに”自らの責任を認めなくてはならない。そうすることによって、よりこの問題を身近に感じることができ、さらにはこれから先不用意に自然に手を出さないようにするための自制装置の役割にもなるだろう。“責任を認める”と言うことはそう簡単に出来ることではないが、人間は本来それが出来る存在である。それゆえにそれを認めることが出来れば、自然との付き合い方もより良い方向に向かうと同時に人間としても発展することが出来ると考えられる。

第二節:新たな共同体として

 共同体はばらばらの個人を繋ぐ大切な役割を持っている。だがしかし、現代の「社会」においては、共同体であるはずなのに個人個人が孤立してしまっている。また、近年のグローバル化によって社会の境界は薄くなり、世界はまさに一つになろうとしている。にもかかわらず、今日の経済重視の社会はすべての有機的なものを無機的なものに置き換えつつある。だが、無機的な世界は人間も含めて、いかなる種類の複雑な生物種をも支えることは出来ない註16  。つまりこのままの社会を継続してゆくことで、すべての生物の未来を破綻させてしまうのだ。今や「社会」はただ利益を追求し、人々が豊かに生活するための空間に過ぎないものとなってしまった。これでは社会のある意味がまったく無く、さらに社会本来の役割も果たしていない。資本主義の台頭によってすべてが数値化され、思考と行為が分化され、我々は自然を搾取するために技術を用いるようになったわけだが、これは自然世界と同様に人間を支配しようとする社会の観念を意味している註17  。ここで、このように自然と対立関係にある「社会」をいかに変えてゆけばいいのか、と言う疑問が発生する。そこで私はこれからも自然と長く付き合ってゆくためには、まずこの利益追求型社会の形を捨てる必要があると考えた。利益追求型の社会はその裏側に消費の増大が付きまとっている。二章第一節でも述べたように、人間の自然破壊の行動は消費活動に裏打ちされたものであると言えるために、この社会の形が自然に大きく影響していることは言うまでも無い。
 そこで我々がこれから目指すべき共同体の形としてゲマインシャフト的な「家族的共同体」という形を提示する。家族は互いのその関係の中に利益を求めながら生活している共同体などではない真実の共同体といえる註18  。このことから、経済の発展と共に薄れていった家族の形(ゲマインシャフト)を共同体の中に取り戻すことによって、人間同士の強い繋がりもまた取り戻すことが出来るであろう。それはつまりただ欲求のままに生きるのではない、理性のある人間らしい生き方を取り戻すということである。「家族的共同体」という利益を追求しない共同体においては、そこに潜む消費活動も弱まることが予測される。このような共同体をつくることで、自然との共存に向けた一歩を踏み出すと同時に人間として、さらに生き生きと人生を生きていくことが出来るのだ。

結論

 現在行われている「自然のため」の活動の裏側には、結局のところ自分の利益を考えている面があるといわざるを得ない。人間をそのような行動に移させるのは利益追求型の現行社会であり、その形を変えない限り、人間が人間らしく生きることは出来ず、自然とこれからも共に生きていくことは出来ない。なぜなら、人間らしい生き方とは、ただ欲求のままに自己中心的に生きることではなく、周囲と幸不幸を共にしながら慣習や信仰などを持って生きることである。もし現在の形がまったく変えられないのならば、我々人間と自然は共に生きていくどころか、このままでは共倒れ、という事態にまで発展するだろう。
 自然環境を悪化させたのは他の誰でもない我々人間自身だ。いくら「そんなのは昔の人がやったことで自分は悪くない」とこの問題から目を背けても、我々には人間として問題解決の責任がある。この事実を受け入れることの出来る社会、そして人間にならなくてはならない。それが出来る社会こそ私がこの論文で提示する「家族的共同体」である。しかし、社会構造を変えることは容易なことではない。何年のかけて築いてきたこの「社会」を壊すことはなかなか出来ないだろう。だがそこで「出来ない」といって諦めてしまえばそこでお仕舞いだ。だから我々は我々のできうる最善の努力をしなくてはならない。
 ただし、そのような共同体を作り、我々の意識が変わったとしても、現在地球を蝕んでいる環境問題の解決にどれくらいの時間を要し、どのようにして解決できるかは分からない。利益を求めながらでも解決へ導くことは出来るかもしれない。だがしかし、私は現在のこの利益追求型社会の形を家族的共同体へ変えることによって、利益至上主義でない新たな切り口から問題解決ができる、という新たな可能性が生まれると考えている。

 【註】
(1)テンニエス『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念―(上)』、岩波書店、1887年、91頁引用 >>>本文へ
(2)同上 >>>本文へ
(3)上掲書、41頁引用 >>>本文へ
(4)同上 >>>本文へ
(5)テンニエス、91頁参照 >>>本文へ
(6)ジャン・ジャック・ルソー著『自然と社会』白水社、1999年、85頁-1より引用 >>>本文へ
(7)テンニエス、53頁参照 >>>本文へ
(8)上掲書、61頁参照 >>>本文へ
(9)アルバート・アインシュタイン、ジムクンド・フロイト著、養老孟司解説『ヒトはなぜ戦争をするのか?〜アインシュタインとフロイトの往復書簡〜』花風社、2000年、42−43頁参照 >>>本文へ
(10)上掲書、57頁参照 >>>本文へ
(11)オルテガ著『個人と社会(新装版)』白水社、1989年、75−76頁一部引用 >>>本文へ
(12)ピエール・ジョルジュ『環境破壊』白水社、1972年、9頁参照 >>>本文へ
(13)ジョン・エルキントン、ジュリア・ヘイルズ『グリーン・コンシューマー・ガイド』1988年参照(アンドリュー・ドブソン『原点で読み解く環境思想入門―グリーン・リーダー―』(1999)、ミネルヴァ社 所収) >>>本文へ
(14)アルド・レオポルド『野生のうたが聞こえる』講談社、1997年、258-259頁参照 >>>本文へ
(15)マレイ・ブクチン『エコロジーと社会』白水社、1996年、25頁参照 >>>本文へ
(16)上掲書、26頁より引用 >>>本文へ
(17)上掲書、221頁参照 >>>本文へ
(18)テンニエス、35−37頁参照 >>>本文へ

 【参考文献】
1.オルテガ(佐々木孝、A・マタイス 訳)『個人と社会(新装版)』(1989)白水社

2.アルド・レオポルド(新島義昭 訳)『野生のうたが聞こえる』(1997)講談社

3.マレイ・ブクチン(藤堂麻里子、戸田清、荻原なつ子 訳)『エコロジーと社会』(1996)白水社

4.テンニエス(杉之原寿一 訳)『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念―(上)』(1887)岩波書店

5.ジャン・ジャック・ルソー(平岡昇 訳)『自然と社会』(1999)、白水社

6.アルバート・アインシュタイン、ジムクンド・フロイト著、(養老孟司 解説)『ヒトはなぜ戦争をするのか?〜アインシュタインとフロイトの往復書簡〜』(2000)花風社

7.ピエール・ジョルジュ(寿里茂 訳)『環境破壊』(1972)白水社(文庫クセジュ)

8.アンドリュー・ドブソン(松尾眞、金克美、中尾ハジメ 訳)『原点で読み解く環境思想入門―グリーン・リーダー―』(1999)、ミネルヴァ社 所収 ジョン・エルキントン、ジュリア・ヘイルズ『グリーン・コンシューマー・ガイド』(1988)より

 



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