統治者としての女性
―女性だからという理由は存在しない―
7277 塚本真己
要約
近年男女平等が叫ばれていて、女性の社会進出も進んでいる。女性の政治的統治者がいることも珍しいことではない。
しかし、社会は女性の政治的統治者をどこか異なった存在とみなし、ことあるごとに男性達と比べたがるように感じる。
女性が政治的統治者としての素質を十分に兼ね備えていても、男性と同じように振舞い、彼らの創り出した「女性は男
性に従うべきである」という土台に上がる必要があると考える人もいる。だが、私は、現代は女性と男性という区別を
するよりも、一人の人として、存在を認めることが必要であると考える。本論文では、女性の政治的統治者が男性の政
治的統治者の創り出した土台に上がる必要はないということを、社会の仕組み、政治の意義から見直し、議論する。ま
た、過去の女性の政治的統治者として、エリザベス1世を例として挙げ、実際に女性の政治的統治者が存在できること
を述べる。
「女性であること」「男性であること」にこだわってしまう人がいるのは、過去からの共同体の変化が要因のひとつで
あると挙げられる。人々は、過去から受け継がれてきた考え方を忘れられないのである。かつての社会は、小さな集団
での秩序に疑いを持つことがなかったし、その秩序を守ることは当然であると考えられていた。一度社会に組み込まれ
てしまった「女性は男性に従うべきである」という秩序を、大きな集団に変化した社会でも、人々は維持し続けてしまった
のである。
女性が政治社会において、主権者としての地位を持っている以上、男性中心の社会を維持し続けることは賢明なことではない。
さらに、政治の本質的な意義というものが「女性であるから」ということで、女性の政治的統治者を区別していることもない。
政治の本質的な意義というのは、個人の安定を守るために、社会の全体の安定を守ることなのである。その安定を守ることが
できる人物であれば、「女性であること」「男性であること」といったことは条件に含まれない。
そういった社会において、一人の人として、女性を見つめるためには、やはり人々の意識の中で、認識を変えていくしかな
いのである。「なぜ、女性が」といったような違和感を共同体が持ってはいけない。過去の考え方に縛られ続け、自分達を
見直すことのできない社会は発展することができない。これから変わっていく社会の上で、人々が一人の人として、女性を
自然に受け入れられるようになっていかなければならない。
目次
序論
第一章:政治の存在価値
第一節:社会契約―ゲマインシャフトからゲゼルシャフトの共同体へ―
第二節:政治の意義
第三節:現代の政治への対応
第二章:政治的統治者に求めるもの
第一節:支配の諸類型とは
第二節:理想の政治的統治者
第三章:一人の人としての女性
第一節:エリザベス1世の存在
第二節:今日に必要な「力」
結論
参考文献表
序論
近年、男女平等社会が主張され、女性の社会進出は進んでいる。私達が生活するにあたって、重要なものである政治社会において
も同様のことがいえる。だがその反面、社会は女性の政治的統治者をどこか異なった存在とみなし、ことあるごとに「女のくせに」と
男性の政治的統治者と比べたがるように感じる。女性が政治的統治者としての素質を十分に兼ね備えているならば、男性と同じように振
舞い、彼らの創り出した「女性は男性に従うべきである」という土台に上がる必要はない。それは、男性によって創り上げられた社会で
あったからこそ、求められたことなのである。女性の政治的統治者が男性の政治的統治者よりも優れていないということはない。
その例として、映画「もののけ姫」の中でエボシという女性の政治的統治者が挙げられる。彼女は、男性中心の社会である戦国時代おいて
、優れた女性の政治的統治者として存在する。エボシは女性からも男性からも尊敬される人物である。時には武力を行使し、自然を破壊す
るが、優れた知能と見識があり、戦術にも長けている。結果が良くも悪くも迅速に判断を下し、そこには迷いなどない。そういった割り切
った面を見せるかと思えば、皮膚が腐っていく病気の人々を保護するという温かみのある面を見せる時もある。彼女は「エボシ」という一人
の人間として存在しているのである。「男性」であるから、「女性」であるからといった理由で尊敬されているわけではない。彼女が彼女で
あるがゆえに、その信頼は成り立っているのである。けれども、その見解は「タタラ場」という場においてしか見られない。この時代、一度
外に出れば、彼女はただの「女」として見下されてしまうのである。
現代において、政治社会に「女性であること」「男性であること」といった理由は不必要性である。そのことを再確認するために、政治の定義
というものを見直し、過去と現代の社会の成り立ちの違いを読み取ってみたい。
本論文では、基礎となっている社会の成り立ちというものを述べた後に、集団を維持するために必要な支配の体制をまとめる。その上で、今日の
社会が持つべき認識というものを述べ、結論とする。
第一章:政治の存在価値
第一章では、統治者が統治者たるに必要な「政治」の意味について見てみる。「女性」の政治的統治者であっても「男性」の政治的統治者であっても、
まず国民の「政治」に対する認識がないと、彼らは存在できない。そこで第一節では、社会というものの成り立ちについて、ドイツの社会学者である
テンニエス(1855-1936)の意見を基に見直してみる。その後、「政治」の人々との関わりについてイギリスの哲学者であり政治思想家であるジョン・ロック
(1632-1704)の説を基にし、現代においてその定義がなされていないことを考察する。
第一節:社会契約―ゲマインシャフトからゲゼルシャフトの共同体へ―
ゲマインシャフトとゲゼルシャフトとは、共同体の形を示している。本章では、ゲマインシャフト的な共同体とゲゼルシャフト的な共同体について述べた
後に、ゲマインシャフト的な共同体が、ゲゼルシャフト的な共同体に変化した社会に起こる、共同体の認識の問題点を述べる。
「ゲマインシャフトは持続的な真実の共同体であり、ゲゼルシャフトは一時的な外見上の共同生活にすぎない。だから、ゲマインシャフトそのものは生き
た有機体として、ゲゼルシャフトは機械的な集合体・人工物として、理解さるべきである。註1 」
とテンニエスは述べている。また、「都市文化が花をひらき実を結ぶところでは、ゲゼルシャフトがその欠くべからざる器官として現れる。農村はゲゼル
シャフトを殆ど知らない。註2 」
ともある。
このことから、ゲマインシャフトは、農村のように、集合体の構成員一人一人のことを深く知っており、把握している状態である。お互いに心から理解し
ようと常に意識している。一方、ゲゼルシャフトは、自分が知りうる情報のみでしか判断せず、お互いを深く知ろうとは思わない。表面上さえ付き合えば
、もしくはその場限りの付き合いをすればよいと思っている共同体である。全体ために動いているよう見えながら、個々人のために動いているのであり、
「よりよく見えるものを手に入れるためでなければ、自分のもっている物を手放しはしないであろう。註3 」といった構成員で成り立つ。第二節においてもう一
度述べるが、「法」というものを作り、国家を維持するということも、全体を守ることにより個人を守る、つまり、個人が存続するために全体が存在するという
形で成り立っている。ゲゼルシャフト的な共同体において、「他人に示した一切の好意に対しては、少なくとも、それに相当するものを返してもらうことを期待する。註4 」
ということは政治社会でも例外ではない。こういったお互いの利益追求をゲゼルシャフト的な社会は「契約」しているのであり、それを乱すことは自分の利益を
壊すことであるといえる。
ゲマインシャフト的な共同体からゲゼルシャフト的な共同体に、つまり農村から都市へ変化する中で残った認識というのは、次に示すものである。「人々
を相互に慣れさせ、相互に熟知せしめるにいたり、共同の労働と秩序と管理を必然的ならしめる。註5 」ゲマインシャフト的な共同体に生きてきた人々にとっ
て、一度慣れた秩序というものは基礎的なものであり、簡単には忘れられるものではなかったのである。例えば、「女性が男性に従うべきである」という考え
が今日まで残っているのは、その問題点に気づかないほど、ゲマインシャフト的な共同体において、人々の認識の管理が自然なものであったからである。必然と
いう言葉で表せるほど、集団の認識を信頼していた共同体が、個々人の利益追求のための共同体に変化しても、その認識を全てなくすことはできなかったのである。
第二節:政治の意義
では、ゲマインシャフト的な共同体がゲゼルシャフト的な共同体に変化した社会においての政治の成り立ちについて、ロックの説を基に見てみる。また、第二節、
第三節でこれから述べられることも同様に、上記のような社会の形態であることを前提としている。
そもそも全ての人は「それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが適当と思うまま
に自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全に自由な状態である。註6 」そういった状態であるに
もかかわらず、あえて人々が社会をつくり政治的統治者に従うのには大きな利益がある。それは、「プロパティ(ここでは財産や資本というモノに対する所有権や人
間の身体や人格に関わるという広い意味)を平和かつ安全に享受することができることである。註7 」
政治の基本的な意義というのは、ある社会において対立や紛争が起こった場合に調節を行ったり、交渉したりして
社会全体を安定させつつ、社会の意思決定を行い実現するものである。つまり、政治を行うことにより、その範囲内で私達は確実で誰もが認める権利を有すること
ができるのである。「権利を獲得するにあたっての主要な手段は法である。註8 」とロックは述べている。その手段を実行するには権力が必要となり、その権力という
のが立法権力である。「立法権力は、それが一人の手中にあろうと何人かの手中にあろうと、また、それが常時存在するものであれ休止期間をもつものであれ、あら
ゆる政治的共同体における最高の権力ではある。註9 」さらに、立法権力が最高権力であるためには四つの制限がある。第一に立法機関は制定された法に従って、人々
を統治し、身分や職によって異なった対応をしてはならない。第二に、それらの法は人々にとっての善のためだけに制定され、それ以外の理由では立案されてはい
けない。第三に、立法機関は人々が自ら、あるいは同意をしない限り、所有権に対して課税してはならない。第四に、立法機関は法をつくる権力を他に移譲しては
いけないし、移譲できない註10 のである。
第三節:現代の政治への対応
ロックは人々の意思を政治は無視することはできないと考えている。私は、現代において、このロックの主張はいえないと考える。
現代の政治では、人々の意思を無視しているというよりも、人々が政治を無視しているように考える。そう考える最も大きな理由は、
現代の人々が政治社会に対して持っている見方が、非常に厳しいものであることである。法や政治家に対して過剰というほどに「粗捜し」
を行っているように感じる。もとからその法または人物に問題があったのかもしれないが、細かな情報、予測される事柄について敏感に反
応している。国民がここまでするのは、自分達の利益が大きく関わってくるからである。少なくとも民主主義の国は、選挙により政治的統
治者を決め、生活の安定を委ねている。そこには、政治的統治者に自分達の生活を任せるという気持ちなどはない。私達が選ばない限り、
彼らは政治的統治者として存在できない。彼らは、彼らが政治的統治者になれた分の同等ないし、それ以上の利益を国民に返していかなけ
ればならない。国民は返されるのが当たり前だと考えている。であるから、「粗捜し」を行うのは国民が自分達の利益が確実に得られるか
どうかを確認しているのであり、彼らにとっては当然の権利であるといえる。自分達により多くの利益を与えてくれる理想的な法や政治的統
治者を求めているのである。国民に利益を与えない政治的統治者というのは、国民にとっては契約違反であり、彼らが政治的統治者として存
在する意味はない。お互いの利益を発展させてこその関係なのであると国民は考えている。
しかし、国民は最近では自分達が政治に求める利益についてすらわかってはいない。国民はマスメディアによって簡単に情報を手に入れられ
るようになった。それは、確かに国民の知識を高めてくれている。だがその反面、利益の追求の歯止めが利かなくなってきた。どんなに些細
なことでも、国民は自分が知らなかったことに対して損害を得ることが許せないのである。
国民は普段の生活の中で、自分の利益について意識して考えているわけではない。むしろ無意識に考えたり、行動していることが多い。した
がって、国民は自分がいかに自己の利益を重要視しているかに気づく必要があると考える。このまま気づくことがなければ、国民は、他人に
自分が何を求めているかもわからない、例えば、幼い子供が何に対して悲しんで、何に対して怒りを感じているのかわからないような、
自分で自分のことがわからない人となってしまう。そのことが幼いうちならば、成長途中であり、これから学んでいけば十分である。けれども、
社会で独立して生活できるようになった人々が、自分の求めるものがわからないのは危険なことである。自分で判断することが可能になった人に、
周囲の人々が指摘してくれることはないし、自分で上手くそのことを隠そうとする。そのために改善することは難しくなる。エーリッヒ・フロムも
次のように述べている。「ナルスティクな人(ここでは自己を愛着の対象としている人)は失敗の事実を認めたり、他人の正当な批判を受け入れら
れなくなる。註11 」私達は何を求めているのかもよくわかっていないのに、貪欲に政治に対して利益を得ることばかり考え始めている。
したがって、人々の政治社会に対する態度をみても、私は政治という安定を与えてくれるはずのものまでも、搾取しようとしているように感
じる。個人の利益追求は果てしなく続く。自分自身で止めようとしない限り、止まることはありえないし、止めることができないのである。この
ままでは、国民はただの享楽を求める生き物として国家に存在することになってしまう。政治は、国民のあまりに多い意思を無視せざる得ない状態になっている。
第二章:政治的統治者に求めるもの
第一章で政治について述べた。では、次に政治を円滑に行なうのに欠かせない政治的統治者について考えてみる。国民が政治に対する不安を持っている
この状況を打破できる政治的統治者というものは、「女性」の政治的統治者であれ、「男性」の政治的統治者であれ、現時点では存在しないと私は考える。
そういった政治的統治者が存在していない理由は、「理想像」になってしまっているからである。その理想像をより現実に近づけるために、統治体制の形、
政治的統治者の持つべき信念というものを見直す。第一節では支配の形についてマックス・ウェーバー(1864-1920)の文献を基にまとめる。二節では、理想
像と化している政治的統治者のあり方というものを見てみる。
第一節:支配の諸類型とは
私達は安定という利益が得られるからこそ「政治」という概念の下に従い、政治的統治者に社会の安定を委ねている。その委ねるということは、力や影響力
によってのみに服従しているわけでもない。「従順性の種々さまざまの動機―漠然とした慣れから始まって、純粋に目的合理的な考量にいたるまでの―にもと
づいたものでありうる。註12 」支配には3つの純粋型が存在する。「合理的支配、伝統的支配、カリスマ的支配である。註13 」
合理的支配は、ある社会集団に存在し、その集団の中の勢力圏内で、法や行政に従って集団の一致した利益のために行動する人々のことである。そして、この
集団に指示を与える統治者も、その集団の法ないし、秩序に従わないといけないのである。
伝統的支配は、「その伝統性が古来伝習の(「昔から存在している」)秩序とヘル権力との神聖性に基づいており、また、この神聖性にもとづいて信仰されて
いるとき、伝統性と呼ばれる。註14 」この集団が、新たに法や体制を創り出そうとするときは、先例や判例を参考にすることが多く、純粋にその伝統とは違う形の
法や体制を創り出すことは難しい。
カリスマ的支配は、統治者ないしは統治団体が非日常性を持っており、人々に神秘性や英雄的感情を与えることによって成り立つ。しかし、政策が失敗に終わっ
た場合や国民に対して何の利益も与えなかった場合、この神秘性や英雄的感情を失い、彼らの非日常性は消滅する。また、合理的支配や伝統的支配と異なって
いるところは、カリスマ的支配は、国民がそのカリスマ性を「承認」している範囲内、承認している期間のみ正当性を持つことができるのである。
ウェーバーはこの3つの支配体制について、どれが最も良いとは述べていない。それは「いかなる種類の正当性が要求されるかに応じて、服従の類型も、
この服従を保証することを任務としている行政の類型も、支配の行使の性格も根本的に異なったものになってくる。註15 」からである。現代の私達の社会は
合理的支配である。法や行政に従って、生活を行なっている。その体制を理解した上で、第二節で、合理的支配における理想の政治的統治者の形という
ものを述べる。
第二節:理想の政治的統治者
合理的支配に属している国民が「理想の政治的統治者」を求めるのなら、まず、国民自身が、果てしなく続く自己の利益追求という欲求に打ち勝つことが
不可欠である。法という秩序の中に存在する国民と政治的統治者が相互的に関係している社会では、国民からの期待という圧力は決して小さなものではない。
情報のあふれた社会に生きている国民が生み出してしまった「理想像」というものは、一人一人の国民の利益を考え、一人一人の国民に適した法を作り、一人
一人の国民の損害を減らす人物である。一見、このような政治的統治者は素晴らしい人物であるように見える。しかし、これではただの言いなりにすぎない。
その政治的統治者自身の能力は、必要なくなってしまう。国民の顔色を伺う政治的統治者がいるくらいなら、時間と労力がかかるが国民全体で決議を行ったほうが
ましである。
私が考える最も理想的な政治的統治者というのは、国民を知っている人物である。ここで挙げている、「知る」ということは、国民の良いところ、悪いところ、
全てを理解した上で、政治を行う人物である。
『社会契約論』において、ルソーはこう述べている。「賢明な立法者というものは、法を作る前にその法を与えられる人民がその法を支持することにふさわしい
かどうかを吟味する。註16 」どんなに優れた法であっても、人民が受け入れなければ、その法が存在することは困難であるからである。この立法者の例は、政治的
統治者にもあてはまると考えられる。国民について、知ろうとしなければ、上手くいくはずの政策も上手くいかない。
政治的統治者が、国民の利益を考えることは必要である。国民と政治的統治者は、双方の利益追求の契約を行っているのであり、その契約を裏切ってはいけない。
しかし、国民は少数の政治的統治者と契約しているが、政治的統治者は全ての国民と契約しているのである。その差は、些細なものではない。ある一定の国民に
とっては利益となるが、別の国民にとっては不利益になるという政策というものは存在してしまう。それは、人が、それぞれ異なった自己を持つ上では仕方のない
ことなのである。政治的統治者が行うのは、より多くの国民にとっての利益であり、細かなところまで追求していたらきりがないのである。
国民の政治に対する知識が高まっている今、自分自身以外の利益について考える人はほとんどいない。この理想の政治的統治者が「理想」のままで終わって
しまうのは、欲求を追い続けても止まることができない、国民の無意識の表れともいえよう。どれほど優れた政策を行っても、結局は国民が納得しなければ、
政治的統治者としての価値を見出すことはできないのである。
第三章:一人の人としての女性
私がこの章で最も言いたいことは、女性ということも含めて一人の人として、女性の政治的統治者を見ることが現代には必要であるということである。
ここまで政治と政治的統治者について見てみたが、その中には「女性であること」「男性であること」は述べる必要はなかったし、述べていた文献もなかった。
男性が統治することを前提条件にしているから述べる必要がなかったのか、「女性」であること「男性」であることが条件になかったから述べられていなかった
のかと考えられるが、この場合では基本的には前者である。文献の先駆者達の時代では、女性は男性に従う者として考えられていたし、女性もそれを受け入れていた。
例外として、テンニエスやロックのように、男性のほうが女性よりも優位であるという考えを持っていない人物達もいたが、多くの人はその考え方を変えなかった。
現代にも、女性と男性の間には優劣があると考えている人は多々いる。
しかし、私は、女性の政治的統治者と男性の政治的統治者には、違いなどないと考える。女性と男性には、確かに身体的な違いは存在する。その違いは変えようがなく、
仕方のないことである。女性は身体的制約を持った上で、男性と同等の世界で生きていかなければならないのである。けれども、精神的面では、女性と男性の間には
違いというものは存在しない。過去の男性中心の社会においては、女性は男性とは違い、か弱かったり、感情の起伏が激しかったり、口達者であったりと女性像を
「問題のある対象」として作り上げた。それは男性が優位に立っているべきだという考えによるものである。その根拠として、次のことが述べられている。
「人々は女嫌いが何世紀もの間、まず力、次に慣習、そして最終的に事実を是認する法律によって幅を利かせ、異議もなく君臨してきたことを忘れている。註17 」
では、女性の政治的統治者が男性の政治的統治者と同様であるということを述べるにあたって、第一節でイギリスの女王であったエリザベス1世を例として挙げる。
第一節:エリザベス1世の存在
エリザベス1世は、長きにわたり「女王」の地位を守り、政治活動を行い、その生涯を終えた。現代と彼女の生きた時代とでは、
女性に対する扱い方に大きな違いがある。また、彼女が封建制という血筋や家柄を重視した、伝統的支配の「女王」という特別な政治的統治者であったから、
政治活動を成し遂げられたということも現代との違いである。だが、現代の女性の政治的統治者も、社会体制や支配の体制が違うが、彼女のように政治を行
なうことは可能であると考える。
彼女が生きた時代というのは、中世から近世の初期にかけてのイギリスであった。この頃のヨーロッパは「社会的に大きな変革を迎えていた。災害やペスト
の流行、うちつづく戦争などで破滅寸前の状況に追い詰められていた。終末思想が社会をおおい、人びとは異常な宗教的情熱にうかされていた。註18 」とある
ように悲惨な状態であった。女性に対しても、家の、父親の意向に従い、生きていくように考えられていた。しかし、そんな中、誕生した文化が、「人文
主義(ヒューマニズム)思想」である。人文主義思想とは、普遍的な教養を身につけるとともに、教会の権威や神中心の中世世界観のような非人間的
重圧から人間を解放し、人間性の再興を目指した運動である。この運動の結果、「女性にも学問の扉が開き、女性の目を開かせる。註19 」ことが可能になった。
そのためにエリザベスは幼いうちから高い教育を受け、大変聡明な人物となっていた。このことは、彼女の政治的統治者としての能力に大いに力を与えた。
例えば、様々な国の言葉を学んだために、通訳を通さずとも外交を行なえたことなどが挙げられる。だが、この高度な教育というものはエリザベスが前王の
子であったためになされたことであり、その当時の全ての女性が高度な教育を受けられたというわけではない。
したがって、女性の政治的統治者としての彼女の注目すべき点は、エリザベスの行なってきた政治である。私が最も気になったのは、エリザベスが「女性
の社会的地位の向上や女性の権利獲得のために尽力した形跡はない。註20 」ということである。私はこのことはエリザベスが、女性を含めた人としての自分、
という形で政治を行なった証拠であるように思う。彼女は、ゲマインシャフト的な共同体ではなく、ゲゼルシャフト的な共同体、即ち個々人で自分としての
利益を追求することを目指していたように感じる。彼女は周囲の目を気にしなかった。それは次の出来事からもわかる。
「女王に一日も早く結婚するように嘆願書を提出する決議をすると、女王は議会の代表者に、結婚して子を生まないからといって、非難しないでほしい、
わたしはこの国と結婚し、国民のひとりひとりがわたしの子どもなのだから、と戴冠式の指輪を見せながら答えた。註21 」とある。彼女は、女性は「結婚」し
「子どもを生む」ことが必要であると考えていた社会において、あえて違う道を選んだ。「エリザベスが結婚をあきらめたほんとうの理由は、結婚すれば、
王権を夫と分かち持たなければならないことにあった。註22 」ともあるように彼女は権力を求めていたのかもしれない。けれども、彼女は周囲の求める「女王」
というものに応えることなく、独自の「女王」として自分を見失うことはなかった。その聡明さ、自信あふれる姿に人々はエリザベスという人物に従ってい
くことを拒まなかったのである。
現代の女性は、エリザベスの生きた時代よりも、勉学を学ぶにしても、女性の社会的立場を考えてもよい環境である。したがって、現代の女性の政治的統
治者に対しても、エリザベス1世と同様に、政治的統治者としての十分な知識と判断力、責任を負う覚悟があれば、女性であろうと男性であろうと関係ないと
考える。現に、後継者を生むという行為をしなかったエリザベス1世であっても、イギリスという国を守りきることができたのである。
第二節:今日に必要な「力」
ここまで、政治の意義、政治的統治者について考察してきた。しかし、女性が政治的統治者でいてはいけない理由などなかったように感じる。
もちろん優れた統治者として持たなければいけない考え、態度というものは存在するが、その中に女性であること、男性であることなどは関係ない。
現代の社会は、労働力においても消費社会においても女性の存在は大きな価値がある。女性によって、新たな産業として生まれた美容業界がそのいい例である。
着実に社会的地位を持ち始めている女性を、男性が無視し続けるのは賢い選択であるとはいえない。むしろ、そのような状況になってきたら、力を持ってきた
女性は、そんな社会には愛想をつかすであろうし、徹底的につぶすことを考えてくるだろう。現に、男性が創り上げてきた「女性は男性に従うべきである」
という土台は、女性の動向を気にしている時点で崩れつつある。身体的制約の上では、女性は確かに男性よりは力がない。けれど、そういった武力としての
力が政治社会においては必要だと考えることはできない。君主制であって、君主の「力」を誇示するのならまだしも、現代は合理的社会である。現代の政治
は知力を必要とし、武力で押し通すべきものではない。例え武力で確定できたとしても、その武力というものは、攻撃した側にも攻撃された側にも大きな被害をもたらす。
したがって、知力が必要な政治という世界において、女性であるから、男性であるからといったことで女性の政治的統治者を異様な立場としてみる理由に
はなり得ない。優れた政治的統治者として必要なのは、国民がどういった人々であるかを理解し、適切な政治体を見極める力を持ち、迅速に判断し、
その結果に全ての責任を持つということである。女性は女性としての自分と、自分自身という人としての自分と二つの側面を持って、政治社会におい
て戦っていけばよいのである。
結論
本論文では、政治社会での女性の政治的統治者の見方について述べてきた。しかし、政治社会においての問題点のみにしかふれておらず、
社会全体で見直すことができなかった。私は、現代の社会全体においても、「女性であるから」という理由を盾に、女性を男性と区別していないか同様に
考えていく必要があると考える。男性が創り上げた、「女性が男性に従うべきである」という社会的土台が失われつつある今、女性を男性と区別する理由
はもはや必要ない。そのことに社会はまだ気づくことができていない。私達の環境を取り巻くものは、基本的には全ての人にとって平等なのである。
いつまでも過去の根拠のない考え方に縛られるべきではないと考える。女性と男性の身体的制約は、人には変えることはできない。であるから、
そのことを理解した上で、精神的部分で、自分の考えの中で、一人の人として見つめる必要がある。
「なぜ、女性が」といったような違和感を共同体が持っている限り、女性が一人の人としての自分を見ることはできない。これから変わっていく
社会の上で、私達が一人の人として、女性を自然に受け入れられるようになっていかなければならない。
註
(註1) テンニエス著・杉之原寿一訳 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念―』 岩波書店、 1912年、37頁引用。 >>>本文へ
(註2) 同上、37頁引用。 >>>本文へ
(註3)同上、92頁引用。 >>>本文へ
(註4) 同上、115頁引用。 >>>本文へ
(註5) 同上、52頁引用。 >>>本文へ
(註6) ジョン・ロック著・加藤節訳 『統治二論』 岩波書店、 2007年、191頁引用。 >>>本文へ
(註7) 同上、297頁引用。 >>>本文へ
(註8) 同上、297頁引用。 >>>本文へ
(註9) 同上、298頁引用。 >>>本文へ
(註10)同上、305頁参考。 >>>本文へ
(註11)エーリッヒ・フロム著 鈴木重吉訳 『悪について』紀伊国屋書店、1965年、89頁引用。 >>>本文へ
(註12)マックス・ウェーバー著・世良晃志郎訳 『支配の諸類型』 創文社、 1970年、3頁引用。 >>>本文へ
(註13)同上、10頁引用。 >>>本文へ
(註14)同上、3頁引用。 >>>本文へ
(註15)同上、5頁引用。 >>>本文へ
(註16)ルソー著・桑原武夫、前川貞次郎訳 『社会契約論』 岩波文庫、 1954年、67頁引用。 >>>本文へ
(註17)ブノワット・グルー著・山口昌子訳 『フェミニズムの歴史』白水社、2000年、15頁引用。 >>>本文へ
(註18)石井美樹子 『ルネサンスの女王エリザベス 肖像画と権力』 朝日新聞社、2001年、9頁引用。 >>>本文へ
(註19)同上、10頁引用。 >>>本文へ
(註20)同上、 10頁引用。 >>>本文へ
(註21)同上、5頁引用。 >>>本文へ
(註22)同上、5頁引用。 >>>本文へ
参考文献表
1. ブノワット・グルー著・山口昌子訳 『フェミニズムの歴史』白水社、2000年。
2. エーリッヒ・フロム著・鈴木重吉訳 『悪について』紀伊国屋書店、1965年。
3.石井美樹子 『ルネサンスの女王エリザベス 肖像画と権力』 朝日新聞社、2001年。
4.ルソー著・桑原武夫、前川貞次郎訳 『社会契約論』 岩波文庫、 1954年。
5.ジョン・ロック著・加藤節訳 『統治二論』 岩波書店、 2007年。
6.テンニエス著・杉之原寿一訳 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念―』 岩波書店、 1912年。
7.マックス・ウェーバー著・世良晃志郎訳 『支配の諸類型』 創文社、 1970年。
|