夢か希望か幸せか
7279 竹田幸平
(4月11日) また短い休暇が終わり、慌しくも平坦な日々が始まろうとしている。こうした状況に身を委ね、日常へ移行していくのも悪いとは思わない。事実、3人の我が子と妻とで送る現在の生活は少なくとも大多数の人々が望むだろう社会的なまともさを纏い、私としても一定の安心感を伴った幸せを感じられる状況にあると自負できる部分がある。新聞記者という職種柄なかなか妻や子ども達とまとまって過ごす機会こそ得難いが妻は自身を理解してくれている(と私は信じている)し、子どもらは健やかな成長を見せ、ローンの返済も順調だ。つまり今の私の立場は、幸せな家庭を支える為に頑張って働く大黒柱としての父親であってこのような思考は無用であり、眼前にある平均台をなるべく安定して歩いていけるような毎日を考えて送ってことがそろそろ中年を迎えるオヤジのこれからの人生である、と片付けて日常に戻っていくことが可能かもしれない。
しかし、と私はここで今日このような長文日記をつけようと思った意義を籠めて自問する。私の人生はこれでいいのだろうか。夢と幸せの実現へ密接に関係するW希望Wを見出だせない屈託した私の未来に光明を見出すことはできるだろうか。反語であるから答えの方向をかなり定めてしまったが、考えてみてもやはりNoと言わざるを得ない。
1988年アメリカ・NZ州で生まれながら英語力皆無のまま5歳で帰国、内塩小学校、関係学院中高大を卒業後、共謀通信社に就職、28歳で結婚して3児の父となり、先月10周年を迎えたところだ。何か未来に対してナーバスになっていたため、過去を簡単な記述と共に振り返ってみた。そういえばこのところ少しでも、過去を冷静に思い出してみようなどと思ったことはなかった。とにかく豊かな思い出が溜め込まれていて、抑え難く溢れ出てくる。
思い返せば学生時代の私には夢があった。夢の定義は辞書とは関係なく人それぞれかもしれないが就きたい職業を挙げる人は多い。小学校卒業の頃にはJリーガーになると文集に書きながら中学校で即野球部に入部したことからも私は一貫した、本気で目指そうとする夢を持っていなかったようだ。だが大学時代には新聞記者として将来働くという、具体的且つ現実的だが自らにとって難解な夢を掲げ、その実現に向けて奮闘する日々だった。あの頃の私には夢を実現させようとする力強さと熱情があって、その間に切実な期待感の表象としてW希望Wが介在し、大きな夢が達成された先には精神的に永続的なW幸せWが待っているかのような錯覚にあった。だがそれは違う、と今つくづく感じる。ヒトは生涯、夢と希望と幸せに思念的であらねばならない、これが過去と鑑みた結果導き出された今日の最終解答だ。
と言いたかったがなぜか今、夢を追い想うこうした日記を書き終えた瞬間の狭間で、ある既視感に捉われていることに我ながら驚いている。それは夢だ。夢に対する情熱を湛えた少年の私が見える。中学時代から思い描いていた、記者になることなどそれに比べれば取るに足りない、大きな夢に思案する。本当に好きなことを仕事として行い、継続した成功を手にし、長年の切実な存念に対する本望を遂げられればどれほど幸せであろうか。夢への憧れとしての希望を備えた瞬間それは不安に満ちた一種の幸せへと変わる。しかし夢を叶え、継続的に実現されることで永続的な幸福が達成される。 これが既視感に自覚して創成した本当の最終解答だ。生涯かけて目指そう、ここに誓う。




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