現代社会における価値の均一化と切捨て
−他者理解の効率化−


*目次*
序章
第一章 「私」による他者理解
 第一節 「私」(I)という中心性と多様な自分
 第二節 「私」の不明確性と他者
 第三節 他者理解における問題点
第二章 価値の均一化
 第一節 一般化された他者
 第二節 大衆から見る「すべての人」
 第三節 一般化された他者と「すべての人」
第三章 価値の切捨て
 第一節 他者理解における価値の切捨て
 第二節 ゲマインシャフト、ゲゼルシャフトの理論
 第三節 ゲゼルシャフトにおける価値の切捨て
結論
参考文献


序章
 世界では国家間、民族間における紛争が絶えず続いており、種々の差別は依然としてなくならない。本論文においては現代社会における人と人との関係について、人間の最も基礎となる「私」と他者との間での他者理解における問題からアプローチしていく。他者理解−「私」と他者との関係は、人間の関わりの最も基本的な関係であると言える。
 以下において、他者理解における価値の均一化と切捨てが現代社会構造の中でより安易に行われすぎてしまうという問題についてオルテガの大衆の反逆とテンニエスのゲマインシャフトとゲゼルシャフトの理論を基に論じていく。
 まず第一章において、他者認識を行う「私」と他者との関係と他者理解における問題点を提示する。他者理解における問題は価値の均一化と切捨てである。第二章では他者理解における問題のひとつである価値の均一化について述べる。価値の均一化とは、一般化された行為とそれに対する反応が全ての人間にあてはまると考えてしまう、また一般化された他者を全ての人間だと思い込んでしまうということである。また現代においては大衆の反逆が起こっている。大衆の反逆とは、価値の均一化を目指し、同じ価値観を持った大衆が少数派を圧殺するという問題である。大衆は一般化された価値観をすべての人にあてはまる普遍的価値であるとして、少数派にその価値観を押し付けている。この大衆の反逆が価値の均一化をより容易に行ってしまう原因となっている。第三章では他者理解における第二の問題である価値の切捨てについて述べる。多様な自分−「一連のいろいろな私自身(a series of myselves)」 註1  、「私」から見れば、多様な他者の姿の中からある特定のものだけを取り出して、それがその人の全てであるかのように捉えてしまうということである。私たちが生きるゲゼルシャフト社会においては、常に自己利益のために自分と無関係のものを切り捨てている。他者認識においても、多様な人間の特質や性質から自分と無関係な他者の特質や性質を切捨て、自分にとって効率のよい特定の一部分だけを取り出し、それをその人のすべてだとして理解するといった問題がより容易に行われる。



第一章 「私」による他者理解
 まず本章では、他者理解を行う「私」と他者との関係と他者理解において問題となる事実を提示する。
 「私」(I)という感覚は人間において最も基本的な感覚であり、この感覚があってこそ「私」は外界の事象を有能な実行者として感じることができる。しかし「私」は他者との関係の中で、「私」という重要な中心性を再生しなければならない。また「私」(I)とは多様な自分をひとつにまとめ、それを自分であると認識している意識感覚のことである。人間は多様な側面を持ち、それがひとつのまとまりとなって全体の私を構成している。さらに他者という存在は、他者から見れば「私」という存在でもある。他者とは人間が「私」を通して捉えている自分以外の人間であり、私も他者も相互関係的に変化する普遍的でない存在なのである。
 私たちが「私」という感覚を通して他者を認識し、また他者が「私」との関係から変化する存在である限りにおいて、他者理解は困難を極める。他者理解におけるふたつの問題は、価値の均一化と切捨てである。価値の均一化とは「一般化された他者」をすべての人間だと考え、少数派の人間に一般的な意見を押し付けることである。また価値の切捨てとは、多様な他者の姿の中から自分とは無関係だと思われる価値をすべて切り捨て、ある特定のものだけを取り出して、それがその人の全てであるかのように捉えてしまうという事実である。

第一節 「私」(I)という中心性と多様な自分
 「私」(I)という感覚は人間の中にあって最も個的のものでありながら、同時に「我々」(we)という共同感覚に最も重要な基盤と成っているものである。「私」という感覚は、言葉を付与され、(いろいろな自分から出来上がっている)ひとつの自分に直面することができ、またもうひとりの無意識的な自分という概念を構成することもできる、感じかつ考えるひとつの生き物であるという個人の中心的覚知である。そしてこの「私」は、各々の個人が、相互了解の可能な経験世界における覚知のひとつの中心である、という言語的保証を与える唯一の基盤となっている。この「私」という感覚があってこそ「私」は雑多な事象の激しい流れを、無能な受難者としてではなく、有能な実行者として感じ取ることができるのである。また、人間の発達においてはこの「私」という重要な中心性−感覚を段階ごとに、次第に増加していく他者との関係の中で再生していかなければならない。「私」は世界像(この宇宙の中のどこに自分が位置し、どこに向かっているか)との触れ合いを通して初めて、一つの定位感覚(a sense of orientation)を所有し、共有することができる。註2 
 また「私」(I)とは、「言葉を付与され、(いろいろな自分から出来上がっている)ひとつの自分に直面することができ、またもうひとりの無意識的な自分という概念を構成することもできる、感じかつ考えるひとつの生き物であるという個人の中心的覚知」 註3 である。さらに「<私自身>(myself)あるいは一連のいろいろな私自身(a series of myselves)を意識するためには、<私>という感覚を絶対に必要とする。」註4  つまり人間は多様な自分から成り立っており、「私」(I)とは多様な自分をひとつにまとめ、それを自分であると認識している意識感覚のことであることがわかる。ミードは、この「私」(I)という意識感覚を「主我」(I)、自分の中の多様な姿を「客我」(me)、そしてそのふたつが組み合わさることによって成る全体としての私を「自我」と定義している。註5  人間は多様な側面を持ち、それがひとつのまとまりとなって全体の私を構成しているのである。

第二節 「私」の不明確性と他者
 第一節より「私」(I)という中心性は他者との関係の中で再生しなければならないものであることがわかる。「この他者のうちの何人かは、極めて親密であり、まさに重要な生活領域における<他者>として個々人を認識できるものであるが、しかし大部分の他者は、相互関係で結ばれた漠然とした数の他者、しかも彼らの現実感覚を我々と共有することによって確固たるものにしようとする他者なのである。」 註6 私たちのひとりひとりが他者との関わりの中で、「私」という中心性を再生する必要があるのだ。「私」は他者とどう関わるかによって、どのように「私」を再生しようか考える。しかし他者という存在は、他者自身から見れば「私」という存在でもある。つまり、「私」という重要な中心性を再生するために必要な関係をもつ他者も「私」であり、その他者の「私」も「私」を含む他者の中で「私」という重要な中心性を再生している。そのため、他者という存在は決して普遍的なものではない。私たちは普遍的でない他者との関係から「私」について考え、また「私」から見る他者は、他者との関係で変化する「私」から他者の「私」について考えているのである。
 「彼らの現実感覚を我々と共有することによって確固たるものにしようとする他者」 註7 とは、この他者との関係で変化する「私」から他者の「私」について考えている他者であると言える。そして「私」から見る他者にとって、「私」は他者でもある。他者の変化によって「私」は変化し、「私」の変化によって他者は変化する。これらのことより、彼らの現実感覚を我々と共有することによって確固たるものにしようとする他者もまた、「私」という重要な中心性を再生しようとしている「私」という存在を意味している。これらことから、私たちは他者との関係を通して「私」を認識しており、誰しもが相互関係的に変化する普遍的でない存在であることがわかる。

第三節 他者理解における問題点
 以上のことより、全ての人間は「私」であることが言える。私たちは「私」(I)という感覚を通して全ての物事を捉え、自分以外の全ての人間を他者であると考えている。他者理解とは他者の気持ちや立場を理解しようとする行為である。しかし第二節でも述べたように、他者は決して普遍的な存在ではない。普遍的な私も普遍的な他者も存在しないのである。さらにそれはどちらか一方が独立的に変化するものではなく、相互作用的に変化している。以上のことから私たちが「私」という感覚を通して他者を認識し、また他者が「私」との関係から変化する存在である限りにおいて、他者理解は困難を極めることがわかる。それでも私たちは他者との関係の中で「私」を再生していかなければならない。ここで「私」と他者との間に生じた矛盾は「私」に直接的に影響を与える。
 他者理解において問題となる第一は、価値の均一化である。それは一般化された行為とそれに対する反応が全ての人間にあてはまると考えてしまう、また一般化された他者を全ての人間だと思い込んでしまうという事実である。また第二は価値の切捨てである。それは多様な自分−「一連のいろいろな私自身(a series of myselves)」註8  、「私」から見れば、多様な他者の姿の中からある特定のものだけを取り出して、それがその人の全てであるかのように捉えてしまうという事実である。さらに現代社会の構造によってそれはさらに促進される。この二点の問題とそれを促進している社会構造について以下に述べていく。



第二章 価値の均一化
 本章ではまずミードの考えから、私たちは他者という存在をより容易に理解するために他者を一般化し、その一般的な反応を予測し行動しているということを示す。さらに、一般化された行為とそれに対する反応が全ての人間にあてはまると考えてしまう、また一般化された他者を全ての人間だと思い込んでしまうという問題について論じていく。  オルテガのいう大衆の反逆という現象は、価値観が均一化された大衆が自分たちの存在を「すべての人」だと思い込み、大衆から離れた特殊な少数派−すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者−をすべて圧殺すると問題である。他者理解において、大衆化は一般的な行為をすべての人に当てはまる行為であると安易に思い込ませてしまい、その一般的価値を押し付けるという問題を促進するのである。

第一節 一般化された他者
 「われわれは自分が他者に対して表示する、他者のなすべきことを心の中で描いている」註9  私たちが何か行動をする際には、その行為に対する他者の反応をあらかじめ予測して行動している。この場合の他者とは「一般化された他者」 註10  であり、個人は他者に対する自分自身の態度を一般化する。一般化とは、ただ単に反応が同一であることの結果である。一定の状況において、すべての人が同じ対象に対してとる行動が一般的な行動と呼ばれ、行動する人間が一般化された他者であると言える。註11  私たちは他者という存在をより容易に理解するために他者を一般化し、その一般的な反応を予測し行動している。
 一般化という作業は他者理解において必須の作業である。しかし問題となるのは一般化された事象を全ての事柄にあてはまると考えてしまうことである。「私」と他者の関係で言えば、行為と一般化された反応との関係を全ての人間にあてはまると思いこんでしまうこと、また一般化された他者を全ての人間だと思い込んでしまうことである。「一般化とは、反応が同一であることの結果」註12  であるが、それは一定の状況においてのみで同じであった結果にすぎないのだ。

第二節 大衆から見る「すべての人」
 一般化した他者をすべての人間に当てはまると考えてしまうことは、現代における大衆化社会において顕著に表れる。大衆とは善きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に価値を見いだすことなく、自分を<すべての人>と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じであることに喜びを感じるすべての人びとのことである。また大衆は、万人に共通する性質、社会において特定の所有者がないもの、他人と異ならず、自分のうちに普遍的なタイプをくりかえすだけである。現在の社会生活の中で、なによりも重要なことは大衆が社会的勢力の中枢に躍りでたことである。すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えないものは、締めだされる危険にさらされている。現代において、大衆が社会的勢力の中枢に躍りでて、大衆から離れた特殊な少数派−すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者−をすべて圧殺するという問題を大衆の反逆という。註13 
 ここで着目したのは、すべての人と同じでない者、すべての人と同じように考えない者は、排除される危機にさらされている。本来「すべての人」とは、大衆と大衆とは離れている特殊な少数派との複雑な統一体であったが、今日ではすべての人とは、ただ大衆だけを意味している。註14  「すべての人」が大衆と少数派との複雑な統一体だと考えられていた頃は、大衆が社会勢力の中枢に踊りだす前である。「すべての人」という言葉が大衆をさすようになったということは、「すべての人」という言葉を使う人自体が大衆に属しているということであり、少数派はすべての人という範疇には属さない。ここで「すべての人」という言葉を使用する人は、少数派の存在を考慮していない。「すべての人」という言葉の意味が変わったという事実に気付かない私たちは、すでに大衆の中に紛れているのである。

第三節 一般化された他者と「すべての人」
 第二節で述べたように、現代社会においては大衆を「すべての人」と捉え、その中ではより均一な価値観を「すべての人」が持つことを目標とする傾向がある。またそれは少数派の価値観を考慮しないどころか、「すべての人」に当てはまらない存在として圧殺するという傾向も持ち合わせている。この考えこそ第一節で述べた、一般化された行為とそれに対する反応が全ての人間にあてはまると考えてしまう、また一般化された他者を全ての人間だと思い込んでしまう危険性が増大する原因であると言える。つまり第一節で述べた「一般化された他者」とは大衆の反逆における「すべての人」であると言える。しかし、今まで述べてきたように「今日では<すべての人>とは、ただ大衆を意味している。」註15  私たちは大衆として存在しているために、「一般化された他者」が単なる大衆の価値観だということに気付かないのである。そのため現代社会においては均一化された価値が一般化された価値であることに気付かず、それを全ての人間に当てはまる普遍的価値であると考えてしまうのである。



第三章 価値の切捨て
 本章では他者理解における第二の問題である価値の切捨てと、それを促進する社会構造との関係について述べていく。価値の切捨てとは、多様な自分−「一連のいろいろな私自身(a series of myselves)」註16  、「私」から見れば、多様な他者の姿の中からある特定のものだけを取り出して、それがその人の全てであるかのように安易に捉えてしまうという事実である。  また社会学者テンニエスによると、人間社会はゲマインシャフトとゲゼルシャフトというふたつの構造概念に区別され、社会は前者から後者に移行する。ゲマインシャフトとはすべての信頼に満ちた親密な水いらずの共同生活であり、ゲゼルシャフトとは一時的な外見上の共同生活である。私は特にゲゼルシャフトという社会形態に着目した。なぜなら私たちは人生の大部分をゲゼルシャフト的社会ですごしているからである。つまり第一章で述べた、他者との触れ合いによる「私」の再生の多くもゲゼルシャフト的社会で行われていることになり、理解すべき他者の多くとはゲゼルシャフト的に繋がっているからである。  ゲゼルシャフト的社会においては、自己利益と効率化のための価値の切捨てが容易に行われる。ゲゼルシャフト的社会では、他者理解においても自分とは無関係だと思われる、相手の特質や性格を切り捨てることがより容易に行われるという問題がある。

第一節 他者理解における価値の切捨て
 第一章第二節において人間は「一連のいろいろな私自身(a series of myselves)」註17  、つまり多様な自分から成り立っているということを述べた。私という存在は普遍的存在ではなく、一言で表すのは不可能である。しかし私たちが他者をより容易に捉えるためには、自分と関係の希薄な他者の特質や性格を少なからず切り捨てなければならない。エリクソンは「事実、人間は<或る程度、明確な拒否生を有する>という程度まで選択的にならないと、(何物かに対して)生殖的でありかつ世話に満ちている(care-ful)という状態には成り得ない。」 註18  と述べている。また、「或る程度の拒否性が生殖性には必要不可欠であるように、或る程度の排他性も親密性には不可欠である。」註19  とも述べている。私たちはある程度の価値観の切捨てを必要とし、それによって他者を理解している。さらに「拒否性は、周期的かつ集団的に顕在化する可能性を大きく孕んでいる。」 註20  価値の切捨ての程度も帰属する社会構造によって異なるということである。個人は、社会集団の一員として属すことで拒否性−価値の切捨てがより顕著に表れ、所属する社会によってそれは増大する危険性がある。
 つまり価値の切捨てとは、多様な自分−「一連のいろいろな私自身(a series of myselves)」、「私」から見れば、多様な他者の姿の中からある特定のものだけを取り出して、それがその人の全てであるかのように安易に捉えてしまうという事実である。また問題は、ある社会においては価値の切捨てという「拒否性」註21  がより安易に表れる危険性があるということである。

第二節 ゲマインシャフト、ゲゼルシャフトの理論
 次に、私たち人間が属する基本的社会構造に注目する。  人々の意志は、一方が働きかけ、あるいは受け取るところの相互作用である。それには他人の意志または身体を保存する傾向を持っている肯定的関係と、それをそこなう傾向を持っている否定的関係とがある。この肯定的な関係によって形成される集団は、内および外に対して統一的に働く存在または物とみなされ、結合体と呼ばれる。その結合体には、実在的有機的な生命体と考えられるゲマインシャフトの本質と、観念的機械的な形成物と考えられるゲゼルシャフトの概念がある。註22 
 ゲマインシャフトとは持続的な真実の共同生活である。すべての信頼に満ちた親密な水いらずの共同生活はゲマインシャフトにおける生活であると言える。この諸個人の関係の普遍的な基礎は、出生による植物的つながりである。例としては母子関係、自然的な意味あるいは動物一般に通ずる意味における夫婦関係、兄弟関係−少なくとも同一の母の身体から生まれたものとして認め合っているものたち−などが挙げられる。すなわちゲマインシャフトの理論とは、人々の意志は、その各々が肉体の構造と対応関係にあるかぎり、血と性によって互いに結びつけられており、また結ばれつづけ、あるいは必然的に結びつけられるという事実である。註23 
 ゲゼルシャフトとは一時的な外見上の共同生活である。ゲゼルシャフトにおいて、人々は本質的に結びついているのではなくて、本質的に分離しており、あらゆる結合にも関わらず依然として分離し続ける。人々はそれぞれ一人ぽっちであって、自分以外のすべての人々に対しては緊張状態にある。その結果、各々は他人が自己の領分に触れたり立ち入ったりするのを拒絶する。ゲゼルシャフトにおいては、各人はすべて自己自身の利益を追求し、他人の利益は、それが自己自身の利益を促進しうるものであるかぎりにおいてのみ肯定的であり、協約の生ずる以前やその外においては、さらにまた個々の特殊な契約の結ばれる以前やその外においては、潜在的敵対あるいは潜在的戦争である。註24 
 私たちは生長と共に、血や性により結びついているすべての信頼に満ちた共同生活から、自己利益に基づく協約によって結びついているゲゼルシャフト社会へ進んでいく。血縁やすべての信頼に基づく社会は私たちにとって少ないことから、私たちは人生の大部分をゲゼルシャフトで過ごしていると言える。

第三節 ゲゼルシャフトにおける価値の切捨て
 ゲゼルシャフトにおいては、各人はすべて自己自身の利益を追求し、他人の利益は、それが自己自身の利益を促進しうるものであるかぎりにおいてのみ肯定的である。ゲゼルシャフトでは各人のつながりは自己利益のための協約に基づくものでしかなく、自己利益が相互に促進される関係においてのみ、お互いを肯定できる。しかし、相互の利益関係の存在しない協約の外や、それを結ぶ以前の関係は常に否定的である。「このような否定的態度は、これらの勢力の主体相互間のありふれた、つねに基礎的な関係であって、平穏の状態におけるゲゼルシャフトの特色である。」 註25 
 つまりゲゼルシャフトにおいては、効率化のために常に自己利益に関係のないものを切り捨てていると言える。しかも、否定的態度は平穏の状態におけるゲゼルシャフトの特色であることから、その大部分は故意的に行われているのではない。肯定的態度が崩れた状態がゲゼルシャフトではなく、否定的態度、それ自体がゲゼルシャフト的であると言える。また、今まで自分が属していたゲゼルシャフト的結合体においても、そこに自己利益がなくなることがわかれば、容易に切り捨てることができる。なぜなら、ゲゼルシャフトにおいて人々を結びつけているものは自己利益やそれに基づく協約であって、本質的には分離しているからである。ゲゼルシャフトは相互肯定に基づいて存在しているかのようであるが、それは自己利益が相互に促進される関係においてのみである。ゲゼルシャフトにおいて効率化のための価値の切捨ては常に行われており、また容易にできる。人々はゲゼルシャフト的関係として存在する限り、自己利益と無関係のもの、または自分に不利益を及ぼすと考えられるものを簡単に切り捨てることのできる環境に存在している。
 これらのゲゼルシャフトの特徴を踏まえると、他者理解においても自分と無関係だと思われる他者の特質や性質を切捨てていると言える。そのような次々と切り捨てられていく諸要素は  自己利益とは無関係の、または自分に不利益をもたらすものである。ゲゼルシャフト社会では他者認識においても効率化のための切捨てが常に行われており、人間の「拒否性」を大きく増大させる原因となっているのである。



結論
 これまで他者理解の問題とそれを促進する社会構造との関係について述べてきた。
 他者理解においてまず重要なことは、第一章で述べた「私」という存在である。人間の発達においてはこの「私」という重要な中心性−感覚を段階ごとに、次第に増加していく他者との関係の中で再生していかなければならない。また、人間は多様な側面を持ち、それがひとつのまとまりとなって全体の私を構成している。私も他者も決して普遍的な存在ではない。この事実を踏まえた上で、他者理解は考えられるべきである。
 他者理解における第一の問題は、第二章で述べた価値の均一化である。価値の均一化とは、一般化された行為とそれに対する反応が全ての人間にあてはまると考えてしまう、また一般化された他者を全ての人間だと思い込んでしまうということである。さらに、現代においては大衆の反逆が起こっている。大衆の反逆とは、価値の均一化を目指し、同じ価値観を持った大衆が少数派を圧殺するという問題である。大衆は一般化された価値観をすべての人にあてはまる普遍的価値であるとして、少数派にその価値観を押し付けている。その大衆こそが価値の均一化で言う一般化された他者なのである。
 また第二の問題は、第三章で述べた価値の切捨てである。価値の切捨てとは、多様な自分−「一連のいろいろな私自身(a series of myselves)」註26  、「私」から見れば、多様な他者の姿の中からある特定のものだけを取り出して、それがその人の全てであるかのように安易に捉えてしまうということである。私たちが生きるゲゼルシャフト社会においては、常に自己利益のために自分と無関係のものを切り捨てている。他者認識においても、多様な人間の特質や性質から自分と無関係な他者の特質や性質を切捨て、自分にとって効率のよい特定の一部分だけを取り出し、それをその人のすべてだとして理解するといった問題がより容易に行われる。
 本論文で扱った、「私」と他者との関係−他者理解は、人間の結びつき−人と人との共生のための基礎的な問題である。なぜなら他者理解の問題は、第一章でも述べた「私」という重要な中心性の再生に直接影響を及ぼすからである。このことから他者認識に関する問題は、現代の社会問題である国家間や民族間における紛争、また人種、性別、部落などの差別問題を解決するための一番根本的な問題であるといえる。これらの社会問題に共通する基礎的な構造が明確化されたときにはじめて、問題解決策を有効に出すことができる。その基礎的な構造が明らかにされなければ、様々な問題に対して個別的にしか対応することができない。本論文で示した他者理解の問題は、人間関係の基礎的な構造を明らかにする第一歩だと言える。よって今後も他者認識と、変化し続ける現代社会との関係について考え、現在の社会問題である紛争、差別問題などの解決策を模索することを課題としたい。


*文末脚注*
1 エリクソン 『ライフサイクル、その完結』 2001年 p122 >>>本文へ
2 同上 p119-124参考 >>>本文へ
3 同上 p119 >>>本文へ
4 同上 p122 >>>本文へ
5 ミード 『社会的自我』 1991年 p1-14参考 >>>本文へ
6 エリクソン p126  >>>本文へ
7 同上 p126 >>>本文へ
8 同上 p122 >>>本文へ
9 ミード p23 >>>本文へ
10 同上 p23 >>>本文へ
11 同上 p23,24参考 >>>本文へ
12 同上 p23,24 >>>本文へ
13 オルテガ 『大衆の反逆』 1978年 p49-58参考 >>>本文へ
14 同上 p58参考 >>>本文へ
15 オルテガ p58 >>>本文へ
16 エリクソン p122 >>>本文へ
17 同上 p122 >>>本文へ
18 同上 p91 >>>本文へ
19 同上 p94 >>>本文へ
20 同上 p91 >>>本文へ
21 同上 p94 >>>本文へ
22 テンニエス 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト−純粋社会学の基本概念−上』 2001年 p34,35参考 >>>本文へ
23 同上 p34-41参考 >>>本文へ
24 同上 p34-37,91-92,112-116参考 >>>本文へ
25 同上 p91-92 >>>本文へ
26 エリクソン P122 >>>本文へ


*参考文献*
オルテガ 『大衆の反逆』 桑名一博訳、白水社、1978年。
テンニエス 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト−純粋社会学の基本概念−上』 杉之原寿一訳 岩波書店 1998年。
E・H・エリクソン/J・M・エリクソン 『ライフサイクル、その完結』 村瀬孝雄/近藤邦夫訳、2001年。
G・H・ミード 『社会的自我』 船津衛/徳川直人訳、恒星社厚生閣、1991年。




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