#7274 西村みなみ 近年増加しつつある少年犯罪は、あまりの増加スピードとひどくなっていく残忍さ、非道さに目に見張るものがある。自分と同世代の人物によるそのような犯罪は非常に悲しく、また興味深くもある。まだ「大人」ではない未成熟な彼らはなぜ罪を犯したのか、また何が彼らにそうさせたのか。この問いに答えることは極めて難しいが、最も考えうる解答は環境すなわち「社会」と、「教育」であると私は思う。そこで以下に近代社会と教育のことについて論じていきたい。 近代社会 近代社会の特徴は社会的なるものの勃興、公的領域の消失の二つである。前者を簡潔にまとめると、生命の維持という人間の自己保存に関わることがら(私的領域)が公的関心事を支配する事態のことを指す。これによって公―私の境界線が消失し、そして私的領域と公的領域は消滅した。ここで重要であるのは後者の公的領域の消失である。そこで二つの近代社会の特徴がどのような帰結をもたらすのかを述べる前に公的領域について定義しておきたい。公的領域とは第一に自由が実現する領域である。またこの自由とは平等と同義語にあたる。第二に共通世界に関わる領域である。共通世界は人々を結びつけると同時に人々を分離させている。すなわち、共通世界は万人に共通の集会場ではあるが、そこに集まる人々はその中でそれぞれ異なった場所を占めているということである。ここから公共領域には複数性、個別性が確立されていることがわかる。さて、上の二つの特徴によって生じる事態とは、「社会」という領域の中で生命の自己保存という単一の利害関心が支配し、均質化、画一化が進行すること、複数性の消失が生じ、人間存在の共通性を担保するものとして貨幣という単一の価値尺度が登場することである。しかも貨幣はそれ以外のあらゆる遠近法を削除していく。こうして近代において複数性が失われ、画一化が進んでいくなかで人々は「自分」を失いそれをどこかに探し出そうとする。少年犯罪はこのような没個性的な社会のなかで自分とは何かを問い、答えを出すことができず苦しみ、「自分」を見つけ出すために出した、彼らの「答え」ではないか、と思う。そうすることによって個性を得ることができ、自己を確立するのである。自分の存在を明確にするためには他人を傷つけるか、自分を傷つけるかが最もはっきりすることである。近年、自分を傷つけるリストカットなども顕著になってきていることから、個性つまり複数性の消失がより明確になってきているのではないか、と思う。 近代家族および近代学校の成立 私的領域から公的領域への転換は前に述べたが、西ヨーロッパでも十八世紀以降次第にこの転換が行われ、私生活は徐々に幸福という観念と同質のものとみなされるようになり、社会的価値を獲得した。これと同時に社会的存在としての子どもへの関心が高まったのである。そして子どもの利益のためという名目で親権に対する社会的、国家的制限が加えられる。このような近代における私生活の価値上昇とそこへの社会、国家的干渉の高まりとの相補的な進行の鍵となっているのが、近代的こども観にほかならない。このような近代家族観、そして学校は国家意志から独立した私的空間として存在してきたのではなく、国家意志の積極的な担い手としての役割を果たしてきたのである。 近代教育 まず、子供の教育には二つの側面がある。第一は妊娠と出産によって子供たちを呼び出し的に共存不可能であり、互いに破壊要因となりうる。すなわち、生命あるものが成長するためには、世界が生命としての生活に注意を払うことができないため暗闇の安全が必要である。したがってこどもが妨げられず成長するためには安全な隠れ場所が必要となる。これを用意してくれるのは、世界の公的側面に対する遮蔽物をなしている私的領域にほかならない。しかしそれに対して、子供を世界に導くためには別の機関が要る。それが学校なのである。以上をまとめると、一方では子供の生命と発展が公的領域から遮断された私的領域で行われるべきものとして考えられており、他方では世界の存続に対して責任を持つ大人が子供を世界に導き入れるという水準の問題が設定される。後者は通常学校で行われるべきものであり、そこのこどもの中にある、新しさを保持してそれを新しいものとして古い世界に持ち込む教育が重要視されているのである。しかし、上述したように私的領域における諸活動が公共的場面に登場したため問題が生じた。それは生命の発展と成長という子供の福祉が保証されるべき安全な隠れ場所としての私的領域が、公的世界の光にさらされるということである。すなわち、家族の現世的生活としてお行われる生命の発展と成長が単なる手段的な価値でなく、それ自体最高の善とみなされる(私的領域から公的領域への転換と同義)のである。それによって子供を生活の主体としてとらえかえし、彼らを解放しようとした。しかしそのことでかえって、こどもを世界に導くという点での危機を招いたのである。それは子供の世界が絶対化されて、こどもの独立を尊重するという口実のもとに子供は大人の世界から締め出されるということである。その結果、上で見たような大人と子供の関係は自覚的に問われなくなる。すなわち、子供の教育に際して大人は子供が導かれていく世界の一切に対する責任を拒否するにいたっている。ここに少年犯罪における最大の要因があると私は思う。大人の世界から締め出された子供はどのように責任を負うということを学べばいいのか。それだけではない。そのような子供は間違った公共性を身に纏い、成長していくかもしれない。その先には少年犯罪が存在する可能性もある。また、そのような子供がおとなになり世界へ導く大人、すなわち教員になった時、次の子供たちへと伝えられていくのはやはり間違った公共性である。このようなことだけが少年犯罪の要因であるとは断言できないが、これらが非常に重要であり、密接に関係していることは間違いないだろう。 まとめ 以上に、少年犯罪を中心にその根拠を近代社会と近代教育に見出してきたが早急な教育の見直し、改革が必要であるということがわかった。具体的には、不確実な未来の担い手である子供が既存の公共的世界に責任を負う大人と出会う場所として、教育関係を構成しなおすということなどが要求されている。 参考文献:B「教育改革と公共性〜ボウルズ=ギンタスからハンナ・アレントへ〜」小 玉重夫 東京大学出版会 |