『人生の中で愛を考える』

#7271 長岡杏奈

改めて愛とは何か?と聞かれると、どう答えたらいいのか、一瞬考え込んでしまう。
人が、愛していると言う時、その愛の対象が、人間なのか、行為なのか、物なのか、動植物なのか、一定の国や集団や地方や思想や主義心情などなのかによって、そのニュアンスが、違ってくる。
また、人を愛しているという時でも、相手が、親や、兄弟や、子供の時もあれば、異性や恋人の場合もあれば、一定の集団や民族の時もあれば、人類全般の時もあり、それぞれの場合、そのニュアンスも、違ってくる。
しかし、どんな場合にも、共通していることとは、対象を、大事に想っているということではないか。だから、その対象に危険がせまると、何とかして、助けたい、守りたいと思うのだ。それは、対象の存在を、肯定し、喜び、好ましく想うこと、いとおしく想うことである。時に、対象に困らされることがあっても、そのような愛の危機を乗り越えて、対象を許し、対象の存在を肯定し続ける意志と、努力がある。(それがあまりに度がすぎると、愛情が、冷めてしまうこともあるかもしれないが。)
愛することや、愛の対象は、やがて、自分の人生の生きがいであり、自分にとって必要不可欠な、かけがえのない存在となる。そんな対象をなんらかの理由で、失うことは、苦痛であり、悲しみであるだろうと思う。 愛は、その存続や、対象を、脅かす相手に対する、憎悪の源となることがある。愛は、愛の対象を、自己の一部であるかのように思うこと、我が事のように、想いを共有することで、自己の意識を、拡張し、自己と他己との境界対立を、解消する行為だが、自己と、愛の対象以外の存在との間に、新しい境界をつくり、対立を深めることがある。その意味では、愛とは、基本的には、自己意識の拡張をもたらす行為だが、自己意識の固執や、閉鎖の原因となることもある。 恋人への愛が、二人だけの世界を生み、それと反するいかなるものも、否定し、排除しようとすることによって、敵意が生まれる。家族への愛が、家族と家族との間に、対立関係を生み、深刻な争いへと、発展することもある。それは、愛の対象が何であろうが、起こり得る事である。
しかし、真の愛というのは、生命への賛歌であり、生命を慈しみいとおしく想い、大事にしようとする気持ちであると思う。不完全で、限界のある人間の愛は、無限と言う訳にはいかないが、それでも、真の愛は、慈悲に根ざしていて、可能なかぎり、普遍的であろうとする。真に人にやさしくある人とは、命ある誰に対してもやさしくある人のことだと思う。線を引いて、この人は、私の愛の対象、それ以外の線の外人が、どうなろうと知った事ではないとか、線の外の人は敵と考え、線の外の人には、冷淡であることが出来るというのは、同じ命を、自分にとって大事なものと、どうでもいいものに、わけて、差別することであり、その根底にあるものは、命への愛ではなく、自己愛の延長にすぎないのであり、自己矛盾であり、エゴイズムである。命ある者ゆえ、愛しているのでなく、自分の都合のいい人だけを、大事にしているのである。人間を敵と味方に分けて、味方には優しくするが、敵には、冷淡でありうるというのは、非常によくあることだが、それ自体すでに、自己矛盾であり、愛の欠如である。なぜなら、基本的に同じ命だからである。無限に向かって開かれていない愛は、閉鎖的な愛は、本物とは言い難い。その意味では、不完全な人間の持ち得る愛は、多かれ少なかれ、本物と自己愛と欲望が混じり合っている。それだからと言って責める事が出来る人はいないだろう。 しかし、その程度が問題である。
極悪非道な犯罪者にも、愛人や、家族がいる。聖戦と称して、残虐非道な殺しが行われる。お国の為、家族の為と称して、軍隊で、殺人をする。そんな、矛盾が世界には、まだまだたくさんある。そんな大きな事ではない、ごく身近な日常生活でもそうである。大きな店が出来て、小さな店が潰れる。ある家族の幸せは、他の家族の不幸となる。女は、自分だけに優しくしてくれる男性がいい。もし、他の女性に優しくしようものなら、自分を愛していないことの証明であり、嫉妬されるのがおちである。自分を守る為なら、殺人だってしてくれる男、白馬にまたがった騎士のおとぎ話に、胸をときめかせるのだろうか。男にとって、他の男は、自分の恋人や、家族を危険におとしめるか、奪うかする可能性のある、敵の予備軍である。男にとって、女の前で、権力や、お金や、腕っ節や、議論で、相手の男を打ち負かし、いいところを見せつけるのが、快感であり、人生の大事な目的である。女の独占欲や虚栄心が悪いのか。男の征服欲や虚栄心が悪いのか。おそらく、両方が勘違いしているのだろう。
とにかく、目には目を、やられたら、やり返せというのが、世間受けがいい。そこには、悪を成敗してくれる英雄が、果たせぬ恨みを晴らしてくれるヒーローがいるからだ。いじめが、子供の社会にも、大人の社会にも多いが、やられるほうも悪いなどという議論をよく耳にする。やられたら、やりかえせということだ。そして、世間は、競争社会である。やられる前に、やらなければ、やるか、やられるかといった雰囲気である。人間を、すぐに、敵と味方の2種類に分けたがる。西部劇やスペースオペラの乗りで、単純に悪者と、正義の使者に分けてしまう方が、てっとり早くて、世間受けがいい。 しかし、いじめは、やられるほうも悪いなどという意見を言う大人が多いということ、弱肉強食の世の中では、喧嘩に弱いことが悪であり、喧嘩で相手を打ち負かす強さを持つ人間こそ、必要だという風潮こそ問題だと思う。その様な弱者をいたわることを忘れた社会だからこそ、いじめが存在するのではないだろうか。いじめるほうが悪いに決まってる。いじめられた上、いじめられる方も悪いなんて、言われたら、たまったもんじゃないだろう。やり返さないのは、多くの場合、臆病だからではなく、耐えているのだ。やられても、やり返さない人間は、やり返したら、相手と同じ人間になってしまうから、やり返さないのである。復讐というものは、憎しみから発生するもので、悪であること、憎しみから発する行為は、決していい結果を生まないことを知っているから、何が一番大事か知っているからである。力で人を支配しようとするのが、趣味に合わない、不得手な人間もいるのである。徴兵拒否をする人もそれと同じである。そのような人を軽蔑するのは、おかしいと思う。なぜなら、もし、そのような人ばかりだと、この世の中、おろかな戦争や、足の引っ張り合いや、他人の不幸の上に自分の幸せを築くような社会にはならなかったであろうことに、気づいていないからである。
しかし、現実の社会では、やられてもやり返さないのは、臆病者だと思われがちである。そのような人達は、人間を敵と味方にわけ、限定された愛と、保身を、重視して生きている。とにかく、トラブルを起こす種になるのは、限定された愛というものだ。それにも関わらず、愛は、人間にとって、人生の花である。それは、命を慈しみ、いとおしいと想う肯定的感情という大地の上に芽吹いたものだから、その中に、不完全で、未熟ながら、限定されない愛、普遍的愛(アガペー)が、まどろんでいるから、大事にそれを育めば、人類全体への愛に通じるからである。
人間は、菜食主義者でない限り、動物の命を奪い、美味しいと言って、食べて、生きている。ある意味、罪深い存在である。私達は、皿の上に乗った、いい匂いのステーキには、馴染みがあるが、実際に、可愛い温厚な牛を、殺し、切り刻み、さばくことはしないですんでいる。そんなことは、したくないと思っている。しかし、自分のしたくないことを、人にやらしていることは、忘れてはならない。だからと言って、世界を支配しているのは、弱肉強食の原理だと、断定するのは、大きな間違いである。むしろ、逆に、そのような、私達だからこそ、せめて、同じ種である人間同士だけでも、殺しあうことなく、協力しあって生きる社会を実現したい、生きていくのに必要な以上の、動物の無益な殺生は、出来る限りしないで、いようと、思うべきだろう。動物の世界といえども、必要最小限の弱肉強食以外は、基本的には、様々な種が棲み分け共存し、無益な殺し合いを回避して、共存している。それと比べれば、同じ種同士であるにもかかわらず、無益な殺し合いをし、足の引っ張り合いをして、自然を破壊し、沢山の動植物を、絶滅させている人間は、あまり、自慢出来るものではない。それよりも、なによりも、人からされていやな事は、人にしないでいよう。人から、して欲しいと思うことを、人にしようとするのが、人の、最も素朴で、自然な、基本的な心情であり、最も大切な愛の根拠であり、人のありかたであると考える。よって、愛も、その基本の上に立ち続ける限り、大きく道を踏み外すことはないのではないかと思う。

【参考文献】
Erich Fromm『愛するということ』紀伊國屋書店、1991年。



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