『現代社会における愛の欠如−理想とする愛の形− 』

#7271 長岡杏奈

〔論文概要〕
現代社会には、愛が不足している。ここでいう愛とは、ゲマインシャフト的な愛、キリスト教の隣人愛のような愛である。こういった愛がなければ、人と人とのつながりは希薄なものにしかなり得ないのではないか。
人によって愛の定義、また愛の重要性は異なる。人間が産まれてから初めて受けるだろう愛は母性愛という無償の愛であり、これを経験することで、人間は成長し、愛についても考えるようになる。しかし、様々な愛が存在する中で「愛」を一概に定義することはできない。愛に関して、定義づけることはできないのに、それでも人はこれが愛だと思うことで、常に理想としての愛を求め続けているのだ。
現代の多くの人間は、自己中心的な愛し方で満足しているように感じる。正しく自己愛を理解し、他者を愛することができる人が少ないと言える。それを可能にするには、皆がある程度自分を抑制でき、しかし、周りに迎合することなく自分の信念に忠実に生きるというような自己愛を持つことが必要である。そして、隣人愛について考えてみて欲しい。隣人愛を理解することで自らの愛に対する考えが変わってくることであろう。
また、この世に存在する様々な愛を知ることで、自分以外の他者との関係をより深く強いものへとすることができる。よって、愛は我々にとって、また人同士のつながりにおいて非常に重要であると言える。


〔目次〕
・序章
・第一章 愛を知る
・(第一節) 愛の定義
・(第二節) 愛と感情
・(第三節) 愛のはじまり
・第二章 自己愛
・(第一節) ナルシシズム
・(第二節) 現代における自己愛
・(第三節) 他者を愛する上で必要な自己愛
・第三章 キリスト教における愛
・(第一節) 古代ギリシア語での愛
・(第二節) 隣人愛
・(第三節) 現代社会における愛の欠如
・終章


序章:
果たして人は愛なしで生きられるのか。愛がなければ、人と人とのつながりは希薄なものにしかなり得ないのではないか。人によって愛の定義、また愛の重要性は異なるだろう。しかし、誰しも気付かない間に、愛を知り、自らで愛の定義を作り上げているだろう。人同士のつながりはお互いを理解し、尊重し合うことで強くなる。そこには愛が存在する。家族、友人、恋人などの周囲の人へ様々な愛が人同士の結びつきを強くする。愛が存在しなければ、人の感情さえもないに等しいものになり得るだろう。そして、愛とはまず、愛されることからはじまる。現代に不足しているのはゲマインシャフト的な愛、キリスト教の隣人愛のような愛である。これらの愛は我々人間、また人同士のつながりにおいてはかりし得ないほど重要である。

第一章:愛を知る
愛は、人が生まれてから死ぬまで関わり続けるものである。愛の定義というものは、人それぞれ異なるが、本当に愛を定義することはできるのだろうか。愛は目に見える物体ではないから、いつも変わらないなどと言い切ることはできない。また、「愛」と一言に言っても様々な愛があるし、愛の形態も様々である。そのような愛を一概に定義することはできないであろう。そこで、愛は感情だという考えについて議論してみると、愛という目に見えないものから、感情が生まれているということが分かる。また、様々な愛を知るための根底には何が必要なのか。それは、人間が生まれて初めて受けるだろう無償の愛、母性愛である。

第一節:愛の定義
愛の定義は人それぞれ異なるであろう。人は自分が気付かない間に、愛の定義というものを作り上げている。しかし、自らで愛の定義だと思っているものは、自らの愛の理想にすぎない。様々な愛が存在する中で「愛」を一概に定義することはできないのである。
愛はこういうものだと言えるなら、文学などなくなってしまうだろう。文学の永遠のテーマといえば愛である。もし、それが定義できるならわざわざ文学にする必要はない。文学がなくならないのは、そうした定義ができないからに他ならない。できないからこそ、具体的な人に向かって、募る想いを表現するしかないのだ。そういう方法でしか愛は表せないのである。誰かに対して湧き上がる想いもないのに愛を語ることはできない。もし、そんなことができるのなら、それはすでに愛について語っているのではなく、別のことを語っているにすぎないのだ。例えば、愛とは相手のことを信じきることだと誰かが言ったとしよう。こうした言い方は抽象的である。そもそも自分のことも信じられないのが人間である。その人間がどうして他人のことを信じられるだろうか。ではこうした言い方のどこが間違っているのだろう。この言い方の一番の間違いは、愛というものを変わらないものだと思い込んでいる点にある。愛は物ではない。物ならば、いつ見ても変わらない姿でいるだろうが、愛は見えない。見えないのに、物体と同じようにいつでも変わらないように言うのはおかしいのだ。
しかし、人は定義というものを作りそれに沿うようにしていかなければ、と考える。愛に関して、定義づけることはできないのに、それでも人はこれが愛だと思うことで、常に理想としての愛を求め続けているのだ。

第二節:愛と感情
感情は、皆、赤ちゃんの時から自然に感じられ、一生、持ち続けていくものと思われる。何かがあると、それに関して、自分はどう感じるか、どう思うかなど、否が応でも気持ちが揺れたり、左右に動いたりと、何らかの影響を受けるものであると自らの体験により考えているかもしれない。しかし、本当にそうなのか。必ずしも、何かにつけて、感情をゆらす必要はないのではないか。小さい時に、母親から褒められると、とても嬉しかったり、気分が良くなったりしただろう。しかしその反対に、怒られると、悲しい、嫌な気分なっただろう。中学生・高校生頃になっても、多かれ少なかれ同じことが起こるだろう。学校の先生が、自分の方に目をやって、自分に多くの注目を注いだり、認めたり、友人より少し秀でたりしているところを注目されると、あなたの心は躍るだろう。しかし多くの年月を経て、多種多様の体験を経ると、あまり多くの感情的ぶれを、小さい時や高校生の頃ほどには感じなくなるだろう。他者の言葉に一喜一憂することも、昔ほどはなくなるだろう。でも我々は常に一人ではない。職場に於いて、学校や家庭に於いても、人は人の間で生きている。それが人間というものである。山の中で仙人のように一人きりで生きていくなら、自分だけの純粋な気持ちの動きのみを感じながら生活できるだろうが、みんながみんなそんなことはしないだろう。ほとんどの人間はこういった感情と他者の言動との関連を体験することになるだろう。
では、愛は感情であるという考えは本当なのであろうか。感情を通して愛を感じるというということは、実際そうかもしれない。しかし、人同士の関わりの中から生まれる一般的に喜怒哀楽と呼ばれる感情は、愛があるからこそ存在し得るものなのではないか。自分が日常の中で、笑ったり怒ったり泣いたりしている原因を考えてみると、その背景には、家族や友達や恋人といった、自分以外の誰かの存在があるのではないだろうか。そして、自分はその人たちを愛しているのではないだろうか。要するに、人と人との関わりは愛がなければ希薄なものなってしまう。また、自分以外の何か、愛する対象なしに喜怒哀楽といった感情が生まれることはない。

第三節:愛のはじまり
人はいつ愛を知るのか。生まれたばかりの赤ん坊は何も知らない。ただ、母親からの無償の愛を得る。母性愛は、人間として必要とされる能力を身に付けるために非常に重要である。
幼い頃、母親や母親代わりとなる人がいない環境に育った子供には多くの問題が生じるだろう。 実際に親が育児を放棄したため保護されたある5歳の男の子がいたという事例がある。その子には両親がいたが、調査の結果、彼は生まれてからずっと食事以外の一切の世話を受けてこなかったという。保護された当初の記録では、身長80p、体重8kgだった。註1  これは、一歳児の平均的体格とほぼ同じであるという。また、5歳のこの当時でも一人で立つことができなかったのだ。彼は、直ちに乳児院に送られるほど、成長の遅れが著しいものだった。その遅れは、単に体格だけに見られたのではなく、他にも、言語能力は生後半年レベルであったし、社会性の発達の遅れ、運動能力の遅れも見られた。これは、母親をはじめとする大人との間に心の交流が全くなかったこと、あたたかな親からの愛情を得ることができなかったことなどが理由として挙げられる。乳児院に移ってからの彼は爆発的速さで成長を遂げた。10代後半になる頃には通常といえるレベルに成長が追いついたのだ。しかしこういった、生まれてから誰からも愛情をかけられたことがなく、逆に誰かに強い愛情を覚えるという体験もなかった子供は、身体の発達だけでなく、心の発達の遅れも問題である。愛情を受け、その相手に愛着を感じなければ、自分以外の人間に対しては無関心になってしまう。しかし、だれかに強い愛着を感じた時、初めて自分と違う他人の存在が見えてきて、他の子に自分を主張できるようになり、豊かな人間関係が築けるようになっていく。こういったことから、母親の存在、母親から愛されるか否かは、人間としての成長を遂げる上で非常に重要なものだと言える。
「愛」には、自己愛、親子愛、兄弟愛、異性愛、師弟愛、隣人愛などといった様々な形がある。そのように、自分以外の他者を愛するには、まず、自分自身が愛され、愛とはどういうことなのかを知る必要がある。そう考えると人間は、生まれてからはじめに受けるだろう愛、母性愛を経験し、人間的な成長を遂げなければ、それ以外の全ての愛を知ることはできないのである。

第二章:自己愛
自己愛とはナルシシズムだと言われている。註2  ナルシシズムとは、自己を愛し、自己を性的対象とすることである。しかし、我々に必要なのはナルシシズムのような自己愛ではない。近年、増加している少年犯罪をみても、ナルシシズムから抜け出せていないがために、他者を愛することができない、または、自己中心的な愛し方しかできていないことが分かる。現代社会には、正しく自己愛を理解し、他者を愛することができる人が少ないと言える。それを可能にするには、皆がある程度自分を抑制でき、しかし、周りに迎合することなく自分の信念に忠実に生きるというような自己愛を持つことが必要である。

第一節:ナルシシズム
ナルシシズムという語は、フロイトの心理学において初めて使われた語である。註3  由来は、ギリシア神話に登場するナルキッソスである。ナルキッソスはギリシアの美男子で、エコーというニンフの求愛を拒んだ罰として、水に映った自分の姿に恋をするという呪いを受けた。そして彼は死に、水仙の花になってしまった。
ナルシシズムを呈する人、ナルシストの特徴としては、人の成功を喜べないとか自分の成功を望むのが自己満足と自己利益のためだけだとかいうことが挙げられるだろう。ナルシストは、自分より低い人間に対しては同情を感じることができるが、人の成功は喜ぶことができない。相手を下に押しやることなく、相手の成功を喜び、なおかつ実力で相手より上に立とうという、公平なライバル意識は、大昔から、人類の成長のきっかけと原動力になってきたといっても過言ではないので、ある程度のナルシシズムは必要かもしれないが、ナルシストはこういった公平な競争は避けるのだ。ナルシストは、連帯責任とか、仲間意識とか、人のことを考えるとか、弱い立場の人の味方になるというようなことの意味のわからない人間である。ナルシストは、「愛」とは「満足を感じさせてくれるものごと」で、「意味」とは「利益、評判、慰めを与えてくれるものごと」だと思っている。ナルシストの態度は、自分のナルシシズムを物語っている。
ここでナルシズム的愛、つまり、自己中心的愛の例えをあげることとする。愛し合っている一組のカップルがいたとしよう。男性の方が病気にかかってしまい、死を宣告されてしまった。しかし、入院して治療を続ければ少しは長く生きられるという。入院費を払うための費用がなかったので、彼女は他人の物を盗み、それを入院費にあてた。客観的にみれば、背景に何があろうと人の物を無断で盗むという行為は犯罪であるので、許されないと思うかもしれない。しかし、もしも自分が彼女の立場にあったらという場合を考えてみてほしい。彼がすこしでも長く生きられるというなら、駄目なことと分かっていながらも彼のために……という気持ちは少しも起こらないであろうか。しかし、これこそ、自己中心的愛なのである。彼に長生きして欲しいと思う気持ちの裏には、彼が死んだら自分はすごく苦しいからという気持ちが少なからず含まれているだろう。そう考えると、彼のためだと言いながらも実際は、彼女は、自分が愛されたいとか自分の欲望を満たすために彼と一緒にいるのである。このような自己中心的な精神では到底、他者を本当の意味で愛することはできないのである。

第二節:現代における自己愛
近年、青少年による凶悪犯罪は増えてきている。その中でも、一見動機が分かりにくい犯罪が目立つ。そこには、空虚な自己を埋めたいという心理が根底にあるのだろう。『自分は何でも出来る』という幼児的な万能感、自己愛を引きずったままの少年が、受験などを契機に挫折してしまったり、自己の優位性が崩れたとき、それを埋め合わせるために、犯罪に走って世間を騒がせ、社会に自分を刻むことで自己を確認するという心理に陥る。「幼児的な万能感、自己愛」というものが、実はナルシシズムのことである。また、罪を犯すことで、社会に自分を刻むとか、相手の死によって自分の生を確認するという心理に陥っている少年たちは、水面に映った自己像に見とれて死に至ったナルキッソスの姿そのものであると言える。
現代の青少年達の特徴の一つは、共感性に欠けると言うことが挙げられるだろう。それは、共感されてこなかったからなのか、または、共感することが出来ないからなのだろうか。間違ってはいけないことは、共感すると言うことは、相手の言うことに全て同意するということではないということだろう。特に問題を抱えている自己中心的な青年たちの多くは、事実をゆがめて認識しているのだ。したがって、彼らの語る親子関係、職場の人間関係などは、鵜呑みに出来ない。もしそれらを鵜呑みにしてしまうと、彼らの肥大したナルシシズムは、さらに肥大して、彼らの問題をさらに悪化させることになりかねないだろう。共感すると言うことは、彼らの認識した現実はともかく、彼らの内部に生じている感情の渦を理解し、その感情に共感を示すと言うことである。彼らの感情を受け止め、理解を示すことが、とても重要だと考える。こうした人間が周りにいないため、自己中心的な考え方をもった青少年達が近年増加しているのだ。これは、まさに周りの人間が自己中心的考えを持った人間であるのだということを示している。

第三節:他者を愛する上で必要な自己愛
人は誰しも、自己中心的な部分、ナルシシズムを持っている。その部分を解消するには、ナルキソスの基本的な態度の反対行動を、自分の習慣にするということが良いと考える。その反対行動は、次のような4つの提案の中に含まれる。
まず、第1に、感謝の精神を忘れないということだ。人から感謝されるのをあまり期待しすぎないで、人に感謝するのは忘れないような価値判断はナルシシズムの自動的解決法だと言えるだろう。全てに対して、感謝の気持ちを抱くことが、ナルシシズムを直してくれる人間の本来的ありようであるだろう。
第2に、相手の立場からも物事を見ることである。一人で生まれ、一人で死ぬ人間は、自分の人生の中心なので、どうしても自分の立場から物事を見なければならない。しかし、相手の観点から物事を見る態度は、一見簡単なようだが本当は非常に難しい。この理由で人間関係の絆が切られる場合も多いと思われる。相手の立場からも見る余裕が自分にあれば、全体的事実はあるいは反対だということがわかるかもしれない。例えば、自分の手にある紙の一面には字が書いてあるけれども、向こう側からみれば白紙であるというように、この単純な食い違いの感情的な連続で、問題がこじれてしまうのは十分考えられることだ。相手の角度からもその「紙一枚」を見る余裕さえあれば、その二人がお互いにどれだけ愛し合っているかという、隠れた事実が表れるかもしれないのだ。
第3に、目標である相手を見るということである。自分の純粋さとかナルシシズムとか自己満足などは、どうでもよいと思えるほど、身近に困っていて、自分を必要としてくれる人を受け入れて、その人の成長と幸福を注目することができれば、間違いなくいつの間にか自分がナルシストでなくなったことに気付くだろう。しかし、自分を必要としてくれる人はいないかもしれないと思う人がいるかもしれない。本当を必要としてくれる人はいないのか。目から流れる涙は誰でもわかるもので、近くにいる人が泣いていれば、心配したりするのはごく普通のことであろう。しかし、人間の一番悲しい涙は目から流れるのではなく、心に残る。また、人間の一番言いたい言葉も口に出るのではなく、心に残る。プライドもあるし、人には迷惑を掛けたくないので、本人は黙って我慢をするだけかもしれない。しかし、その人は手を伸ばしてくれる人間を必要としているのだ。そこで自分は、その人の、心の涙がわかるような人間になることができれば、その人が手を伸ばしてもらいたい人間は自分であり、自分がいかに必要と思われている人間であるかがわかるだろう。
最後に、奥深い自分を見つめることである。人からよく思われたい自分になるのではなくて、自分がなりたい人間を見つめるという態度である。愛されたい、認められたいという自分の浅い望みに妥協しないで、愛したい奥深い自分に忠実に生きることである。損得を自分の行いの基準にしないで、奥深い自分が正しいと思っていることと、奥深い自分が本当にしたいことを迷わずに行うのだ。これらのことを、自分の人生観に入れ込むことができれば、ナルシシズムを解消できるであろう。
そして、自己中心的な自己愛ではなく、他者を愛する上で必要な自己愛とは、どのようなものであろうか。それは、自己の欲望を野放しにせず、怒りや憎悪を抑制して暴力をふるわず、社会の平和を望み、しかし、周りに迎合することなく自分の信念に忠実に生きるというような自己愛である。

第三章:キリスト教における愛
キリスト教における愛というのは、ナルシシズムとは無縁である。隣人愛とは自分以外の全ての人を自分のように愛する、つまり、自分が「隣人になる」ことである。現代に生きる我々は、まだ、自己愛から抜け出せていないように感じる。それにすら気付いていない。そんなことでは、誰かを愛するなんてことはできないであろう。まずは、理想とする愛、隣人愛について考えてみて欲しい。そして、理解することで自らの愛に対する考えが変わってくることであろう。

第一節:古代ギリシア語での愛
ギリシア語では ”愛” を示す言葉が4種類ある。それは、エロース、ストルゲー、フィリア、アガペーである。註4 
『エロース』は性欲・肉体的の愛情、男女間の愛情である。註5  何か価値を見出したり、益になると判断して愛する愛であり、自分が損をしたり、魅力を失うと消えてしまうものである。また、自己充足的なものである。結婚した夫婦であっても、エロースの愛は変わる可能性がある。 このエロースの愛は、神が夫婦の間だけと定めたので、エロースの愛で夫婦以外の他人を愛することは無いのだ。範囲と限界のあるものである。
『ストルゲー』は親が子に与える愛情、父母の愛、親の愛である。註6  親の愛は素晴らしいもので、時に大いなる犠牲をいとわない。我が子を救うために自分の命まで投げ出したりする力のある愛である。しかしこれには短所もある。それは、自分の子供は愛するが、他人の子供は愛せないということ。自分の家族だけという、範囲が限定されているものである。時に誤って、骨肉の争いに発展する可能性もある。このように限界があり、完璧な愛ではない。 『フィリア』は友達同士・兄弟同士の愛情である。註7  由来はフィラデルフィアという地名であり、兄弟愛、友愛という意味である。例えばダビデとヨナタンの愛、これは男と女のエロースの愛よりすぐれた愛であった、と聖書に書いてある。友達関係、親友関係という素晴らしい愛だが、やはり、状況によって変化してしまう可能性がある。 『アガペー』は神に対する意識的な愛情である。註8  義なる愛、聖なる愛、不変の愛、永遠の愛、真実なる愛、平等の愛である。生まれたままの人間は、持っていないもので、神から御霊によって与えられる愛である。アガペーは無条件の愛であり、無条件の愛とは、神が与えてくれる愛「神の愛」である。 キリストが明らかにした愛であり、十字架の愛である。何の条件もなく、範囲が限定されたものではなく、全ての人に向けられるものである。 絶対に見捨てることはないのだ。価値ある何かに向けられるのではなく、「存在そのもの」「私たち自身」「ありのままの自分」に向けられているもので、それは、悪意を持った敵と呼ばれるような相手にも向けられる。罪あるものをも愛する愛であり、 愛した結果何も返ってこなくても変わらない。 見返りを期待しない愛、与えるだけの愛、裏切られても憎しみに変わることがない不変の愛である。無条件の愛は、真に人を励まし、力を与えるものである。
このように、キリスト教的な愛(主としてアガペー)は、自己を捨て他者のために行う無償の愛であり、根底において少しも自己愛を含まない。異性愛(エロース)では、根底に自己愛が潜んでいるとしても、福音書やパウロの書簡に説かれるキリスト教的愛は自己愛とは無縁だと言える。

第二節:隣人愛
そもそも、聖書の中には「隣人愛」という言葉はなく、マタイによる福音書22章39節に「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉がある。隣人とは、お隣さんという人間や、こういう人という条件を示すのではなく、自分が「隣人になる」ことを意味する。相手の条件が問題なのではなく、自分がどうするのかが問われているのだ。自分が隣人になるかどうかの問題なのである。
聖書のルカによる福音書10章37節でイエスが「行って同じように行いなさい」言ったと記されている。「行って」とは、どこに行くのか。それは、自分の外へ、他者へと向かう心のことである。他者へと関心を向けることだ。自己愛の殻を打ち破る方法は、簡単である。それは外へと目を向けることだ。そのために、自分ではない他者、特に困っている人が偶然、目の前に与えられるのだ。さらに、「同じように」とは、何と同じようになのだろうか。「同じような条件」「同じような事柄」を実行することではない。同じように、自分も出て行って「隣人になっていくこと」である。同じようにとは、「同じように隣人になる」ことなのである。
よって、隣人愛とは「もらうものでも」、自分が「相手に与えるもの」でも、達成目標・倫理規範でもなにのだ。そうではなく、自分が「隣人になる」ことである。自分の人生の中で出会う人、特にその中でも、課題をもち、弱さの中に立たされている人に近寄って、その人の隣人になることである。近寄り、関心をもち、そこから一緒に考え、できることをする。したがって、優しいことをすることでも、相手を甘やかすことでも、物やお金をあげることでも、問題を解決してあげることでもないのだ。大切なのは、助ける方も助けられる方もお互いに隣人という関係性をもつことであり、その関係性こそが救いなのである。

第三節:現代社会における愛の欠如
ここで取り上げたいのは、様々な社会問題である。このような社会問題が起こるのは、我々が、先ほど述べたような自己中心的ナルシシズムから完全に抜け出せていないからであり、ゲマインシャフト的な隣人愛のような愛が欠如しているからであると言えるだろう。
ゲマインシャフトとは、ドイツの社会学者テンニエスが唱えた、ゲゼルシャフトと対をなす共同態型の社会型であり、共同社会とも訳す。註9  これらは、血縁に基づく家族、地域に基づく村落、友愛に基づく都市などのように、人間に本来備わる本質意思によって結合した有機的統一体としての社会である。註10  これには、共同性が根本をなし、個体性はそれに包み込まれている、また、共同性は人々の心に内在している、パーソナルで親密な人間関係にある、いかなる分離に関わらず本質的には結合し続けているといった特徴がある。註11  よって、私が考えるゲマインシャフト的愛とは、第二章第一節で挙げた例のような、自分の欲望を満たすためなど自らのための自己中心的愛ではなく、他者のために自己を抑制できる愛なのである。
私たちは、他者を愛しているつもりになっているが、実際は、自分自身しか愛していない。結局は、見せ掛けの愛である。隣人愛を理解することによって、現代社会には、それが欠如していることが分かった。

終章:
これまで、様々なことを述べてきた。まず、愛を知るためには、無条件の愛である、母性愛を経験することが必要不可欠である。そして、そこから、自己を愛するということへと進展する。ここでいう自己愛はナルシシズムではなく、ある程度自分を抑制でき、しかし、周りに迎合することなく自分の信念に忠実に生きるというような自己愛である。そうすることで、また、自分以外の他者をも愛することができる。しかし、ここで言う隣人愛とは理想であって、全員がこれを実行できれば、愛について悩むこともなくなるだろう。人生の中で愛を考え、自問自答することで、こういったことに気付き、理想へ向かって少しずつでも努力しようとすることが重要なのである。そして、この世に存在する様々な愛を知ることで、自分以外の他者との関係をより深く強いものへとすることができる。よって、愛は我々にとって、また人同士のつながりにおいて非常に重要であると言える。

【註】
1.生命38億年スペシャル「人間とは何だU」TBS’99年11月放映。  >>>本文へ
2.エーリッヒ・フロム・鈴木晶訳『愛するということ』紀伊國屋書店、1991年、93頁参照。  >>>本文へ
3.井上忠・藤本隆志・山本巍・宮本久雄『倫理−愛の構造』東京大学出版社、1985年、195頁参照。  >>>本文へ
4.岳野慶作『愛の論理』中央出版社、1973年、60‐64頁参照。  >>>本文へ
5.同上。  >>>本文へ
6.同上。  >>>本文へ
7.同上。  >>>本文へ
8.同上。  >>>本文へ
9.テンニエス・杉之原寿一訳 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト−純粋社会学の基本概念−』 岩波書店、1912年、34‐40頁参照。  >>>本文へ
10.同上。  >>>本文へ
11.同上。  >>>本文へ


【参考文献】
1.エーリッヒ・フロム・鈴木晶訳『愛するということ』紀伊國屋書店、1991年。
2.井上忠・藤本隆志・山本巍・宮本久雄『倫理−愛の構造』東京大学出版社、1985年。
3.井康之『感情の心理学』川島書店、1990年。
4.岳野慶作『愛の論理』中央出版社、1973年。
5.テンニエス・杉之原寿一訳 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト−純粋社会学の基本概念−』 岩波書店、1912年。




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