西暦2027年
                         学籍番号 7587   川口 翔
 私は大阪府豊中市で3人兄弟の次男末っ子として生まれた。小学校4年生までに何度か引越しをしてまた豊中市に戻ってきた。この数回の引越しによる転校のおかげで私は、「友達作り」が得意になった。小学校・中学校時代は友達を多く作り、明るく活発な子どもだったと記憶している。しかし、中学卒業後、公立高校の受験に失敗し、私立高校に入学した。地元の友達と高校が離ればなれになり、当初、高校には知り合いが一人もおらず、高校入学と同時に私は人見知りの性格になった。初めて出会う人と会話をする時にはまず、相手の嫌なところを探してしい、友達はできるが心から親友と思える人ができずに高校生活を終えた。高校3年間で人付き合いが苦手科目になった。
 だが、ひとつ大事な事を高校で学んだ。私は3年間、バスケットボールに熱中した。バスケットボールをする上で、「向上心と努力」の大切さを理解し、向上心を持ち、努力をすることで結果を得ることができた。努力は決して裏切らなかった。
 勉強の面では日々の努力と生活態度が奏功し、推薦入試で大学に入ることができた。
 私は大学に入学後、様々なことに触れた。例をあげると、1年の時に言ったオーストラリア留学だ。留学は2週間という短い時間だったが、オーストラリアの文化、生活を現地でのホームステイにて知る事ができ、国際化が進む社会を理解するうえでとても貴重な時間を得たと思う。特に私はホームステイでお世話になったひとつの家族が印象深く心に残っている。彼らと2週間過ごした中で、私が話したのはつたない英語だったのにもかかわらず、彼らは心よく聞き入れてくれようとしたし、親身になって話かけてくれたりもした。私は語学留学へ行ったのに、オーストラリアの人々は、広大な大地と同じように、大きな心を持ったすばらしい人々ということを学ばせてもらった。
 3年のときにはインターンシップに参加し、新聞社で働くことを学んだ。実際に記者と共に取材へ行き、実践に極めて近い体験をした。新聞記者という仕事を理解し、小さい頃からの夢であったものがぐっと近くなった体験だった。
 そのかいもあって私は大学卒業後、新聞社へ入社した。入社して数年は覚えることが多く、すべてが新鮮で、先輩方に教わる事もあったが、自分から積極的に盗むことで、取材のテクニックも身に付けた。そして徐々に経験を積み、初めて自分の書いた記事が新聞の片隅に掲載された時のことは、今でも忘れることができない。そして33歳の時に、たまたま取材で行った無人島で終戦を知らない日本兵を発見し、大スクープとしてとり上げることができ、読者にすぐに情報を提供できたことが一番の嬉しい出来事だった。
 そして今、38歳となった私は、大学時代の思い出の地・オーストラリアを訪れている。ガン鉄道に乗り、視界一面に広がる大地を見渡し、ふと思う。あの頃の勢いを持ち、後輩もできたが、まだまだ未熟で覚えることも多い。これからも努力を惜しまず精進していきたい。





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