進級論文
失われているエコフェミニズム的思考〜女性の在り方を問う〜

KAN YOSHIMI
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●論文概要


 私は現代でも深刻な問題として続いているジェンダー問題について論じる。私は、女性に関することを調べているうちに様々な視点から捉えた女性のみかたを発見することができた。例えば、第三章から示されている、ボーヴォワールの『第二の性』の本に出会ったことは私にとってとても大きな存在だった。彼女の考えは、女性は男性によって存在のあり方がきまる。社会的に作られた存在。と主張している。このような考え方は今までに出会ったことのない考え方であり、私にとってはとても新しい発見だった。しかし、そういったすべての作者の観点をありのまま受け取るのではなく、疑の心を持ち一度疑いの念から取りくむことによってより深い議論ができる。

●目次


序章

第一章    「女性と自然のつながり」  
第一節  「魔女である女と嵐のような自然」
第二節  「女の価値を低く評価する男」
第三節  「生殖にかかわる女性の受動的役割」 

第二章   「ゲマインシャフトにふさわしい女性」
第一節 「女性と男性の」
第二節 「性差における精神的な対立」 

第三章   「女を支配する男の意思」
第一節 「教育者に適しているのは女性か男性か
第二節 「女性が望むもの」
第三節 「運命から逃れようとする人間」

終章

参考文献表

●序章


現在、女性の社会進出が一般的になっている。しかし、働く場において女性に対する差別が昔から存在するにもかかわらず女性は社会に出て行く。時が経つにつれて、女性差別をなくすための政策や法律が施行されてきた。しかし、差別は完全に無くなっていない。それに関連して、環境問題も現在とても深刻な状況に陥っている。この環境問題に関する解決策が今では多く発見され、実行されている。しかし、環境はますます悪くなる方向に進んでいる。解決策が解明されているにもかかわらず、環境が悪化する問題は解決されていない。この二つの問題は、現状を見て見ぬふりをしている人間がいるという点で共通しているという見方ができる。男性は女性が拘束されている世界から抜け出そうとしている女性の解放運動を見て見ぬ振りをし、深刻な問題をできるだけ小さくしようとしていた。この男性の見てみぬ振りの行動は、現代社会においてもみられる現象である。女性はこの現状から、つまりこの運命からは逃れられないのだ。そこで女性は人間として自由の権利があるにもかかわらず男性たちには受け入れてもらえないという存在からどう抜け出すかが問題となってくる。その答えは、自分を超越することだといえる。超越をすることで自分たちを正当化するのだ。女性問題と自然の問題が出てきたのか、今欠けているエコフェミニズム的思考を参考にし、第一章〜第三章にかけて論じていく。女性と自然は類似していて、女性=自然と解されている。私たちは種族を維持するために自然の秩序と日常的、直積的、有機的な関係を持ちながら生活している。キャロリン・マーチャントは『自然の死』のなかで、「有機体の中心をなすのは自然であり、特に地球を慈母とみなす。」註1  と主張している。それゆえ、女性=自然と解釈できる。しかし、地球の慈母である女性と自然は男性によって支配されてきた。私は現代でも深刻な問題として続いているジェンダー問題について論じることを決めた。多くの著者の主張を読み、議論深めて行き論文を進めていく。そして最後に結論を述べ終止とする。

●第一章「女性と自然のつながり」


まず、第一章では女性と自然のつながりを詳しく論じる。女性と自然は言語や文化、歴史などにおいて昔から深くつながっていた。そのことが明らかになったのは、2つの社会運動である。2つの社会運動とは女性解放運動やエコロジー運動である。この社会運動の共通点は両者とも平等主義的な視点であり、男女の能力を最大限に発揮できる社会を、そして環境状態を維持することを基本とする。エコロジー運動の理想は、人口増加や工業の発展によって乱された自然状態を元に戻すことである。それは、人間が新しい技術を発見し、高度で便利な機械を創り出すこの科学の進歩を反対する考えであり、自然と共に生きることを重要としていた。序章でも述べたように、キャロリン・マーチャントは、『自然の死』のなかで、「自然、特に地球を慈母とみなす考え方。計画された秩序だった宇宙の中で人類の要求を満たしてくれる恵み深い女性である。しかし、女としての自然とは逆のイメージも広く伝わってきた。激しい嵐や日照りや様々な混乱をもたらす、荒々しい自然。このいずれもが女性と同一視されてきた」註2  と主張している。現代では自然に対して支配的、管理的考え方が存在し、そして地球に対する人間の態度や行動の変化が自然に対する考え方と関連していた。地球に対して手を加えていく、つまり、開拓のための森林伐採、採掘、開墾など工業化を進めていくうえで、地球を支配しているというイメージがうまれた。「はぐくむ自然という隠喩や支配すべき自然という隠喩は、哲学や宗教の分野ではそれまでにも存在していて、地球を支配するという考え方はギリシャ哲学やキリスト教のなかにあり、はぐくむ地球という考え方はギリシャ哲学や異教の哲学にみられた。」* 註3  しかし、経済活動が近代化され科学革命が進行するにつれて、「支配すべきものという隠喩が宗教の範囲をこえて広がり、社会や政治の分野でも優勢をしめるようになった。」註4  人間が地球を慈母と考えることで人間の科学革命を規制する抑制の意味として働いてきた。人間は母親を痛めつけること(=地球の破壊行動)は、道徳的に反することと理解することができた。この考え方は哲学者であるパラケルススによって主張されている。パラケルススの哲学によれば、「地球は動植物や人を生みだす母親であり、母床であった。女は地球とすべての自然現象のようなものであり、この意味で彼女を母床とみなすことができる。女は地中に根をはる樹木であり、子はそこに実った果実や樹木のようなものである。ちょうど地球やその産物や自然現象が樹木のためにつくられてあるように、女の各部分、女のすべての特質、その天性の全体は、彼女に備わった簿床、つまりその子宮のために存在する。」註5  この地球を母とみなす思考は古代プラトンの『ティマイオス』およびヘルメス・トリスメギストスの『エメラルド板』にはじめて登場した。16世紀の錬金術師であるバシリウス・ヴァレンティヌスによると、万物は、すべての生命の乳母である生気に満ちた地球の子宮から生じた。と述べている。つまり、動物や植物などといった地球全体の生命がやどったものたちは、ひとつのへその緒で結ばれているといえる。

◎第一節「嵐のような自然と魔女である女」


 第一章で述べたように自然と女性は深いつながりがある。次に、第一節では、魔女という存在をピックアップした。魔女は女性である。魔法を使うことによってどんなものでも自由に操ることができる魔女の存在を自然と結びつけて考える。自然のイメージも女性のイメージも表裏をなすふたつの面をもっていた。つまり、清らかな女性(乙女)は平和と静けさをもたらし、母なる大地ははぐくみをもたらしたが、その反面自然は疫病や飢餓やあらしをもたらした。同様に、女性は乙女でもあり魔女でもあった。魔女は悪魔の存在として扱われている。「魔術を使える魔女は肉体的、社会的においても無力な人間につかうことのできるひとつの報復と支配の方法であった。」註7  と著者は主張している。なぜ、魔女は女性なのか。それはヨハネス・ヴァイアーによる『悪魔の幻惑について』(1563)の中で、「その性のために不安定で信仰が浅く、年をとっているためにはっきりとものを考えることができず、悪魔の罠にかかりやすい」註4  女たちなのであった。魔女は精霊を呼び出す呪文の力を借りて自然を支配することができた。そのうえ、災いを呼ぶことも意のままであり、人間を思うままの姿に変えることもできた。女性が悪魔の獲物の対象になりやすいのは、女性は男性よりも弱く騙されやすいものと考えていたからだ。ヴァイアーは『論争と発言の歴史』(1579)のなかで、女はその性のもろさゆえに信仰にも不注意で、短期で感傷的で、自分の感情を抑えることができない。年をとった女はとくにおろかで精神が耗弱している。だから、女性が悪魔に騙されることは自然なことである。魔術を自然的主義に考えるヴァイアーに対し、ボータンは魔術をうつ病と考えた。「うつ病が過度の乾燥と熱から影響されるのに対し、女性は生まれつき冷たく湿ったものなのであった。」註8  女の湿りというのは子供を生み育てることにとって重要な機能にとって重要不可欠であった。女性が湿りに対し男性は熱である。女性では女性の冷気で男性の熱を緩和させることができるため、怒りなどの感情のまま行動することも少ない。そのため、女性は男性よりも判断力が勝っているといえる。

◎第二節「女の価値を低く評価する男」


 第二節では、女性を男性とおなじ身分より下の地位におかれてきた世界うまれてきた過程を述べる。自然と女が文化よりも低いレベルとみなされ、象徴的にも歴史的にも男性と結びつけて考えられていている。出産や授乳や育児など女の生理的な機能が自然に近いとみられる。日本では、氏神様に子供の誕生の報告し、氏子として認めてもらうためにお宮参りに行く。子どもと共に参拝し、子どもの成長や健康、幸せに暮らせるようにと祈願する。お産は汚れたものとして考えられていた。そのため、お宮参りは母親の忌明けという意味も含んでいた。母親はお参りがすむまで子供を抱くことができないので、父方の母親が抱くことになっている。そういった点においても、男性の地位は女性よりも高く評価されていると示すことができる。また、女性の社会的な役割も文化的尺度からして男性より低い。女性たちはその仕事や役割のために、また権力を生みだすものとして共同体の機能からはずされているため、象徴的な扱いを通しても男性は女性の価値を低く評価している。スコットランドの宗教改革家ジョン・ノックス(1505~1572)は、「小宇宙=大宇宙説を持ち出し、階層的につくられた自然界と小さな人間界を対応させてみた。男と結び付けられた大宇宙説では、精神および純粋な能動力は、球形をした上のほうに行くほど強くなるのに対し、女としての地球はその中心に置かれていた。能動的な精神の養いはするが、いつも下位に置かれ、劣等であるとされた。」註9  またノックスは肉体が精神に劣るから女の地位は男の下になると主張した。女の役割は従順な召使の役割と同じであった。女というものは生まれつき弱く、節度のない欲望を持つものである。また、女の地位の低さは動物界にも反映されている。「自然はどの獣にも雄にある種の支配のしるしを、雌にはある種の服従のしるしをすりこんであり、彼らは黙ってそれに従っている。その証拠に雄ライオンが雌ライオンの前にひざまずいて服従をあらしているのを見た人はいない。」註10  自然の秩序は人間社会にもあらわれている。それゆえ、自然の秩序のなかの女たちの地位は、男の下が妥当である。


●第二章「ゲマインシャフトにふさわしい女性」


 人々の関係は相互に様々な関係によって結ばれている。その関係は一方が働きかけ他方が応じ、受け取るという相互作用である。家族や親せきなどの親密な関係や血縁関係で結ばれた人たちは、ゲマインシャフトと呼ばれる。また、「公的に結ばれた人たち、つまり会社や近所の人といった結びつきはゲゼルシャフトと呼ばれる。ゲマインシャフト的な生活や労働の分野では女性にふさわしいどことか必然的である。」註11  と著者のテンニエスは述べているが、女性がゲマインシャフトにふさわしい理由を詳しく論じる。女性が居心地が良いと感じる場所、それは自分の部屋や友達の部屋である、それは自由に、のびのびと活動し行動できる場所だからである。女性は比較的しゃべることが好きな人が多い。自分の不満や悩み、ストレスなどを誰かに話すことによって解消される。そういった心の内を話せる関係、つまり信頼関係で成り立っている関係はゲマインシャフト的なのだ。様々な規制がされている社会や市場や港は女性にとっては制限が厳しく不快な場所であり、女性にとってはあまりふさわしくないのだ。


◎第一節「女性と男性の特徴」


 適切な判断や処置が下せるのは男性の特徴である。しかし、賢明は知的な力とは違う。総合的な見方をすると、女性の精神の方が優れている。女性は体力や力量においては男性よりも劣るが、精神面つまり神経組織では男性よりも優位である。なぜなら女性の活動藩地は男性よりも狭く、受動的であるからだ。外部から与えられた印象にたいして男性よりも敏感に感じるのだ。「装身具や歌謡や物語の中に表現されているような庶民のうちに存する最も一般的な芸術家的精神は、少女の感覚、母の悦楽、女性の記憶・迷信・予感によって保持されている。」註12  昔から、天才な人間は女性的特質をもっている。すなわち、天才と呼ばれる人は、純真で穏やかな性格なときもあれば、憂鬱で気が沈むときもあり、常に気分や機嫌が変わりやすく、想像や空想の世界にはいりこみがちである。「男性の考え方・気質・性格は、それぞれ意識性・追及・打算によって特に規定され特色づけられていて、女性の考え方・気質・性格は、良心・気分・気立によってそれぞれ特に規定され特色づけられていることが分かる。」註13 


◎第二節「性差における精神的な対立」


  精神的な領域における対立であり、考え方すなわち知識に関するものである。それは、庶民階級の人々と共用階級の人々との対立として考えられ、この対立は固定的でもあり流動的でもある。なぜなら、一方から他方への移行が絶えず行われ、常に中間層が見出されるから。個人によって特殊なやり方で所有されている共有材であり共有の期間である良心は庶民階級の人々の中にのみ存在している。良心は伝統的な考え方に依存しつつ、新しく誕生する者に素質として遺伝される。「自分の身近な人に対する感情や、自分の善悪に対する感情や他人の善悪に関する鑑識として思惟全体と共に成長してゆく。この場合善とは、自然的なもの、習慣的なもの、認められたものであり、悪とは、反自然的なもの、異常なもの、非難されたものである。」註14  一般的に、自分の年齢よりも年長の人、つまりお年寄りや先生や指導員などに対して彼らの言うことに従うことは善として感じられる。実際に、幼児期において両親や先生から「年上の人には大事にし、敬いましょう」と教育される。これに反して、彼らに対する不満や愚痴をこぼすこと、彼らに従わないことなどは悪として感じられる。良心のもっとも単純な、もっとも深い現象は、羞恥である。註15  羞恥とは、何か悪いことを言った後に感じる、または他人に対しても感じる不快の念である。羞恥はゲマインシャフト的意味をもつ。


●第三章「女を支配する男の意思」


 第三章では、女を支配してきた男の意思を読み解く。人間というものは、自分とは違う誰か別の人間がいたら、どちらか有利な方が相手を下にみることや、押さえつけようとする。このことは、男女の間にもみられることであり、男性が女性を支配しようとする意思が理解できる。しかし、男性はどういった利点によってこの意思を表明し、実現できたのか。この真実は歴史を調べることによって理解することができる。昔の生活形態は今の形態とはまったく異なり、自分たちの食べ物は狩猟や収穫によって得ていた。そのうえ、女性は厳しい労働を任せられ、特に重い荷物を運ぶのは女性の仕事であった。しかし、この事は解釈の仕方を変えてみるとこうも考えられる。この仕事が女性に割り当てられたのは、仕事中や移動中にいつ動物や獣、敵の人間が襲ってきても防御できるように男性は両手をあけておかなければならなかったのだ。つまり、男性の役割のほうが危険にさらされており、体力を必要とした。また、女性は長い戦いに参加できるほどの体力は備わっていなかった。なぜなら、女性には生殖活動という自然の行動があったからだ。月経、妊娠、出産は労働能力を低下させ、身体は自由に動くことができなくなり敵から身を守ることや仕事をすることが出来なくなってしまうのだ。このことは、必然的に男性は女性を守ることになり、こうした行為は男性の意思を女性よりも優位になっていると認識させる。


 
◎第一節「教育者に適しているのは女性か男性か」


この本の著者であるボーヴォワールは女性である。彼女は、男は正しくて間違っているのは女だ、と主張している。そして、「人を指導することも、教育することとも女には向いていない」註16  と述べている。筆者は教育することは女に向いていないと述べているが、日本では幼稚園や小学校では女性教師の数のほうが男性教師よりも比較的多い。それは、女性のほうが教育することにおいて適任だということを意味しているのではないか。 日本の教師全体の割合は男性教師が6割、女性教師3〜4割だ。幼稚園や小学校では女性教師の数のほうが男性教師よりも多く、中学校や高校にあがっていくにつれて女性教師の数は減少している傾向がある。実際に私が育ってきた過程において担任教師は男性教師よりも女性教師のほうが多い。教師は子供たちにとって、学校現場における母親や父親のような存在である。幼稚園や小学校のころは母親のような女性教師のほうが、適切だ。なぜかというと、子どもを産める女性であるからこそ、子どもの接し方があるからだ。つまり、このことは女性のほうが教育において男性よりむいていることを示している。女性教師の数が多い理由として、メディアの影響も考えられる。メディアによる女性教師のイメージ設定は、児童に優しく親身になって相談に答える情熱あふれる女性教師だった。自分を産んでくれた母親のような役割をする女性教師は、児童にとっては心を落ち着かせることのでき、温かく見守ってくれる存在なのだ。これらのことから、教育者は女性の方が男性よりも適しているといえる。


◎第二節「女性が望むもの」


両親は最終的な目標としては娘を結婚させるために育てているといってもよい。しかし、娘は早く自立して親元を離れたいと考え、社会に出て働こうとする。だが、社会では女性にとって厳しい世界であった。身をすり減らすくらい働いても賃金は男性よりも低く、女性は男性の上に立つことはできなかった。そのため、女性は結婚すればそのような不平等な世界から解放されると思うのも当然のことだ。女性が自立への道を選ぶことは、男性より大きな精神的努力が必要である。女性が男性を誘惑することは、素敵な男性を手に入れるための大切な手段である。男性の手に握られた経済的特権、男性の社会的価値などこうしたことが男性に気に入られるように女性を切望させる。註17  その結果、女性は全体的にまだ従属的な立場にあり、自分としてあるがままに存在するのではなく、男性が女性を定義するように選択してしまうのだ。したがって、男性が夢想している女性を目指す必要がある。なぜなら、男性にとっての女性の在り方が女性の具体的条件の主要な要因のひとつであるからである。


◎第三節「運命から逃れようとする人間」


 人類はいつも種として運命から逃れようとしてきた。註18  と述べられているが、人類はどのような運命から逃れようとしていたのか。男は創造する。それが本来の男の役割であり運命である。そうすることによって人間であることを実感する。ただ、既存の世界を保存するために創造しているのではなく、新しい世界を築く土台をつくったのだ。男は食べ物を得るため、危険を冒しながら自分の生命を賭けて猛獣と戦う。そうすることによって、生命は人間にとって最高の価値ではないことを示している。生命は生命よりもさらに重要なもののために利用するべきなのだ。つまり、男が食べ物のために危険を冒してでも猛獣と戦い、もし万が一の場合その戦いによって死ぬことになっても、その生命は充分に役に立ってから生命を終えたといえる。しかし、そういった危険を冒してでも人類の種は未来に残さなければならない。人類という種を維持させるには、新しい自分を創造することだ。ただ単に新しい自分を創造するのでは生命の反復にすぎず、人間は単なる反復は価値のないものとみなす。一方、女は未来に向かって自分を超越する。女は生命を反復するように運命付けられてきた。ヘーゲルが主人と奴隷の関係を定義するのに用いている弁証法がある。ヘーゲルによれば、「主人の特権は自分の生命を危機にさらすことによって生命に対して精神を主張した結果得られたものである。しかし実際は、敗北した奴隷もこの同じ危険を経験したのだ。一方、女はもともと、生命というものを生み出すだけで自分の生命を危険にさらすことのない実存者である。男と女の間には、論争は一度もなかった。もう一方の意識は依存する意識であり、この意識にとって本質的な実在とは、動物的生命、すなわちほかの実体によって与えられた存在である。」註19  女もまた男によって達成される価値観を目指し、未来を築いていくのは男の役目だが、女も未来に向かって超越することが役目である。そういった価値観を創り出したのは、男の特権を保ちたいと考えている男たちだ。つまり、女を一定の領域に閉じ込めようとしたのだ。しかし、女(実存者)は超越するなかで自分を正当化することを追い求め、女が要求するのは男と同じ権利や資格で実存者として認められることである。実存主義は男たちが優位になったことを証明する。男は道具の発明や生命を維持することで未来に向かって投げかけた。一方、女は母親になることで、動物と同じように自分の体に押さえつけられていた。男が女に対して示すのは、生命よりも生きる理由のあり方を選ぶことなのであり、反復することではない。男の危険を冒すなどといった行動によって自然と女を従属させた。


●結論


私は、現在、社会問題になっている環境破壊問題(=自然)と女性差別問題(=女)は関連性があると主張してきた。自然破壊は人間中心主義であり、その人間中心主義を考えることは、支配−被支配という関係がある。それは男性と女性の間にある関係と同じであるといえる。エコフェミニズムの考えを参考に女性と自然との繋がりをあらゆる角度からとらえ述べた。男性が女性の地位を下に見るということは、今でも変わらない事実であり、これからも変化しない事なのだ。つまり、女性が意思表示を明確にし、男性と同じ権力が与えられるように行動することが大事である。すべての主体は、新たな自由に向かって絶えず自分を乗り越えることによって初めて自由を手に入れることができる。超越の運動をすることで自分たちを正当化するのだ。女性が望んでいるのは、男性との同等の立場や権利であって、人間をその動物的従属性に当てはめるのではない。私は、女性問題というテーマを取り上げることによって女性の価値は社会において下に見られていてかわいそうな存在であると考えていた。しかし、議論を深めることで女性を卑下した考えがそもそも間違っているのだと気付くことができた。これから、まだ女性のあり方の考えを深め続ける必要がある。


●脚注


(1)キャロリン・マーチャント 『自然の死』 団まりな、垂水雄二、樋口祐子、工作舎、1985年、21ページ参照。 >>>本文へ
(2)同上、23ページ参照。 >>>本文へ
(3)同上、同ページ引用。 >>>本文へ
(4)同上、同ページ引用。 >>>本文へ
(5)同上、61ページ参照。 >>>本文へ
(6)同上、264ページ参照。 >>>本文へ
(7)J.Wever 『悪魔の幻惑について』、1563年。 >>>本文へ
(8)キャロリン・マーチャント 『自然の死』 団まりな、垂水雄二、樋口祐子、工作舎、1985年、269ページ参照。 >>>本文へ
(9)同上、274ページ参照。 >>>本文へ
(10)同上、275ページ参照。 >>>本文へ
(11)テンニエス 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト−純粋社会学の基本概念−下』岩波書店、1912年、68ページ。 >>>本文へ
(12)同上、51ページ。 >>>本文へ
(13)同上、54ページ >>>本文へ
(14)同上、58ページ 参照。 >>>本文へ
(15)同上、60ページ。 >>>本文へ
(16)シモーヌ・ド・ボーヴォワール 『第二の性−T事実と神話』 新潮社、 井上たか子、木村信子監訳、1997年、163ページ引用。 >>>本文へ
(17)同上、198ページ引用。 >>>本文へ
(18)同上、96ページ引用。  >>>本文へ
(19)同上、95ページ引用、参照。 >>>本文へ
●参考文献表


(1)キャロリン・マーチャント 『自然の死』 団まりな、垂水雄二、樋口祐子、工作舎、1985年。

(2)テンニエス 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト−純粋社会学の基本概念−下』 岩波書店、1912年。 

(3)シモーヌ・ド・ボーヴォワール 『第二の性−T事実と神話』 新潮社、井上たか子、木村信子監訳、1997年。

(4)アンドリュー・ドブソン 『原点で読み解く環境思想入門―グリーン・リーダー』  イネルヴァ書房、松尾眞、金克美、中尾ハジメ訳、1999年。

●リサーチフェアでおこなった「もののけ姫」との関連性

 私はジェンダーについて論じた。「もののけ姫」ではタタラ場という村が出てくる。そこでは、エボシという村の長がいて、人々を仕切っている。エボシは女である。エボシの存在は、女でも男の上に立ち、男たちを従わせるようにすることは可能だということを示している。昔から、女の地位が男の地位の上に立つことはなく、現代社会においてもその立場関係は変わっていない。そこで私は女性が上にたっても成り立っているタタラ場の男と女の主従関係に注目し、進級論文を女性と男性の問題にした。


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