意識的改革
―ヒューマネイチャーから見る環境問題―

目次

序論
第一章 放任された環境問題
第一節 環境問題の現状
第二節 マスメディアの論じる環境問題
第三節 環境への意識
第二章 ヒューマンネイチャー
第一節 ヒューマンネイチャーとは
第二節 ヒューマンネイチャーの有無
第三節 ヒューマンネイチャーから分かること
第三章 人間が目指すべき今後
第一節 私民から市民へ
第二節 エゴからエコへ
結論
参考文献表
意識的改革―ヒューマネイチャーから見る環境問題―
7273 神尾秀平


概要

我々は普段環境に目をやることは少ないが、いざ目を開けてみれば、環境は当初の姿よりもはるかに原形を失い、目を覆いたくなる要は悲惨な問題が数々生じている。いわゆる環境問題である。我々は環境問題に目を背けているが、環境問題を解決するためには我々個人個人が努力することでしか解決の糸口は見つからない。そこで我々は環境問題を解決に導けるためにヒューマンエコロジーの考え方を用いて問題解決を図り、そして意識改革を施して他を慮ることを知って人間同士の結束を強めることで環境問題を解決に導くべきである。

序論

私達が日々生活している中で直面する数々の諸問題の中に環境問題がある。我々は環境を人間の私利私欲の赴くままに搾取、利用した結果生じたしっぺ返しとしての、大気汚染、地球温暖化、 オゾン層の破壊、海面上昇などという環境問題が深刻化する中で、我々の環境問題に対する関心が高まりつつある。環境問題が目立ち始めてから人間は、二項対立として自然と人間を対立軸において環境問題のあり方を見出し始めた。しかしながら環境問題への解決と一口に言うもののどこか表面的な解決方法でしかなく、本来の解決方法に言及していないものがあまりに多い。そこで、この論文では我々が本来行うべき環境問題に対する対策を、ヒューマンネイチャーという人間の思想から、人と自然の共生の可能性を考察する。



第一章 放任された環境問題


昨今、環境問題はもはや地球が抱える諸問題の中で最もメジャーなものとして君臨している。しかし、それほど重きを占めている環境問題は、実はあるところでは誤解を招き、そしてあるところではいまだに楽観視されているのである。第一節では今発生している環境問題の現状を述べ、第二節でマスコミによって話が筋違いになってしまっている環境問題について述べ、第三節では一部で楽観視されている環境問題について論じることとする。

第一節 環境問題の現状


私たち人間は地球上に一動物として誕生した。人間は古来、食物等の自然からの恵みと自然災害という名の自然からの脅威を受ける中で自然に対して感謝と畏怖の念を抱いていた。それは豊作を祈願する祈年の祭りや、一年の収穫を自然に感謝する新嘗の祭りに見られる。しかし現状はどこか環境に対して違った側面で捕らえているところがある。それが環境問題の根本原因である。
ひとえに環境問題といっても様々で、地球温暖化、オゾン層の破壊、酸性雨などの地球環境問題と括ることができるものから、大気汚染、ヒートアイランド現象などローカルなものまで幅広い問題が見て取れる。これは人間がかつて自然を畏れ多い存在として認識していた時代にはありえなかったことである。  というのも我々は、近代では自然を人間発展のふみ台であるかのように扱ってきたからである。地球上に一生物として誕生した時点で人間は自然から発生したものであると言える。しかし人間が知恵をつけて、文化文明を持ち、そこに技術が加わった瞬間に人間は傲慢になったのである。例を挙げるとするならば人間は高速開発の一環として山を切り開き、切り崩し、自然を人間の都合よい環境に作り上げる。また人間に都合の良い、または人間が使うことで便利な道具から排出される物質が環境の仕組みを破壊する。言うなれば排気ガスがそれにあたる。これが昨今言われている環境問題である。しかし人間はこれを解決しようとはせず、いつか他人がやってくれると勝手気ままな放任的姿勢をとっている。環境問題はまさしく人間のエゴによる産物なのである。

第二節 マスメディアの論じる環境問題


 しかし、人間が環境問題を解決に導くことを怠るはずがない。環境問題の現状を声高に論じているメディア媒体がある。それはマスメディアである。特にテレビでは毎日のように、報道特集、独占取材と銘打ち、環境問題の持つ深刻性やライフスタイル変革の必要性を論じてきている。これらの番組プログラムは環境問題に遠い存在の人間にも伝わりやすく、また学者の論じる環境問題を理解するに足りない年齢の子供、またはお年寄りの方たちにも把握しやすい内容となっており、今地球が抱えているもっとも大きなこの問題を国民全員に浸透させるには大変効果的であり、私たちの自然に対する意識改革を促す存在であるといっても過言ではないだろう。  しかしここで視点を視聴者から報道する側に移してみるとどうであろうか。報道する側がもちろん自然に対する意識改革がなされているはずだが現実はそうではない。言うなれば放任的である。マスメディアの一部として、さも世間の代表であるかのように装っているが実際ふたを開けてみれば環境問題の報道をただ行っただけでそれを解決しようという努力をしていないのである。マスメディアは環境問題を報道する際には先陣を切って報道する一方で、実行に起こすことについては「スポンサーがなければ動くことは出来ない」の一点張りである。マスメディアは 「ものを作って作りっ放し。そこから先は後始末の専門の人間が考えればよい。」という考え方でしか見ていない。   思いを行動に、行動を成果に結び付けられなければ、社会は変革しないのであって、市民の環境への潜在的な思いを顕在化させることに貢献したマスメディアは、次のステップとして、環境問題解決の機会を示し、それが不可能であるならばマスメディア自らが提案し、成果を陳述する役割を期待されている。ライフスタイルの変革が求められるとき、その必要性を伝えるだけでなく、具体的な手法をどう提案するか、市民からのフィードバックをどう活用できるかが、最も重要なポイントとなる。しかし、やはりこの意識の低さが存在する以上はいつまでたっても現状が打破されて環境問題解決の糸口が見えてくることはない。所詮マスコミは世間における正義中の正義を偽った存在なのである。

第三節 環境への意識


 環境問題に対する危機意識はマスメディアによって植え付けられた。それ以降一般企業が環境に対して投資をすることが目立ち始めた。環境問題が声高に叫ばれる中で日本の企業は環境問題に古くから取り組んできた。その中で企業淘汰という考え方がある。たとえば排気ガスによる環境問題が表ざたになる前に日本政府は企業に対して世界に先駆けた規制を課す大号令を行った。しかし環境問題に企業が傾倒しすぎると企業自体の発展が危ぶまれる状況に陥る可能性がある。環境問題に取り組むことによって企業が大幅な発展を遂げてきたことも厳然たる事実であるが、その一方で環境問題に対する取り組みが企業の発展の足かせになっていることも事実である。といえども環境が企業を選別し、業界再編と重なって企業を淘汰するアクセレレータとなるという危機感とは裏腹に、淘汰される企業もあればより強くなって生き残る企業があることも事実である。これが企業淘汰である。  環境問題を解決するために企業が資金を捻出することは少なくともマスメディアよりはよっぽど高等な行いであるといえる。しかし環境問題に投資することで企業が淘汰されるアクセレレータとなるという考え方にはいささか疑問符が付く。 企業を選別して淘汰する、若しくは企業を飛躍へと導くときの「環境」は人間と同列に置くことができるものであろうかと考えたとき、その答えは確実に否である。この場合の環境はただ人間を飛躍に導くかそれとも衰退の一歩へといざなうかという選択肢だけしか持たない、人間の下にある存在としての環境である。環境が人間のツールであるという傲慢な考えによる結果である。また井熊均はシリコンバレーの例をあげて、シリコンバレーを中心にした産業発展が環境問題になりえる公害の規制ゼロの状態で進んできたことから、ここに環境産業発展はありえないと述べたうえで、日本では環境産業が蔓延しており、環境が企業にとって良い意味のリングになると断言している。筆者は環境問題を必ずしも悪であるとは述べていないが、筆者が述べる意味での環境は人間の発展のための企業戦略でしかない。これは環境問題に対する意識が希薄な結果生じるものと言っても過言ではない。環境が存在する上に我々が成り立っていることを完全に忘却してしまっているのである。
そもそも環境に対する投資はいくら投資してもしすぎることはない。確かに地球の自然は将来的に太陽に飲み込まれてしまうことを考慮すれば有限であることは確かであるが、今現段階では環境問題は大変深刻な状態にあるのだから、企業が身を粉にしてでも環境に喜んで投資する必要がある。 人間は環境問題を口酸っぱく論じているがそれは他人事にしか聞こえない。それはまだ環境問題を深刻に受け止めていない証拠である。我々は今一度環境問題を見直して人が環境から派生してきたという意識改革をして新たな共生方法を模索すべきである。



第二章 ヒューマンネイチャー


 環境破壊を食い止めるには、まず行動よりも何よりも意識改革が必要である。行動のほとんどには意識が伴うからである。意識を変えるためのひとつのツールとしてヒューマンネイチャーを挙げる。第一節ではヒューマンネイチャーの意味するところを具体的に述べ、第二節ではヒューマンネイチャーは存在するか否かを検証し、第三節ではヒューマンネイチャーから考察しえることを述べる。
第一節 ヒューマンネイチャーとは


 私たちは今という時を生きており、時間は決してと止まることがない。そのことは、私たちが過去を意識し、同時に未来への期待と不安感を持つことを意味する。また私たちは産声をあげてから現在に至るまで与えられた自らの環境の中で生活している。さらに、その生活の場はこの地球上にあり、日本という国家に属し、自らが家族あるいは親類縁者とともに暮らしている地域文化であり、その場所、つまるところの生活空間は多くの制度と組織と慣習、または風土と文化を歴史的背景とともに備え、私たちにさまざまな影響をあたえ続けている。ヒューマンネイチャーとは、それらを奪って生まれたままの知的レベルに戻して考えた時に、ただ人間であることだけしか共通点のない物同士の思考は共通する点があるか否かであるとか、その時点から成長したときに他に感化されずに養われた思考における共通点は見られるか否かというものである。仮にこの存在が認められれば人間同士の共生はおのずと見えてくるはずである。個人のエゴによって環境問題が生じると先ほど述べたが、もし仮にこの存在が認められれば、人間同士の対話によって環境問題の解決はすぐそこまで見えてくるはずである。

第二節 ヒューマンネイチャーの有無


 今地球が悲鳴を上げている要因である環境問題を解決するには、まず環境の代弁者である人間同士が結びつきあうことが重要になってくるが、そのためには人間同士共通する感覚があるかどうかを検証しなければいけない。そのツールとしてヒューマンネイチャーがある。  端的に、ヒューマンネイチャーがあるか否かと問われればそれは間違いなく、あると答えられ得る。人間は、生物学的に見ても 人間同士で脳の容量や脳神経の構造の極端な相違は無い。言うなればもって生まれた遺伝的才能の違いくらいであろう。ある一定の共通点が無い限りはひとつの集団になって行動できないはずであるし、さまざまな主張が今よりもっと混在し、混迷を極める一方になるとも予測されえる。そもそもヒューマンネイチャーを日本語に直したときに「人間の社会的行動様式」であるとか「人間の社会的規範」と訳されることから、 ヒューマンネイチャーは道徳や倫理の大本にあるものである。よって仮にヒューマンネイチャーの存在を認めなければ、社会はより混沌な世界になってしまうことが予測される。ここに矛盾が生じるのである。ヒューマンネイチャーは聞きなれない語であるが、実は日々ヒューマンネイチャーに触れながら我々は生活しているのである。

第三節 ヒューマンネイチャーから分かること


先ほども述べたとおりに、ヒューマンネイチャーは道徳や倫理の大本に存在するものである。この道徳や倫理が我々の環境問題解決への第一歩を踏み出させてくれる。その方法は、自然を破壊することは道徳的、倫理的に正しくないことを観念付けることである。古代、中世の人間同士の結束力が強かく、地縁的のも血縁的にも密度が濃かった時代の人間が自然に手をつけなかった理由は「畏れ多い」からである。当時は自然に対して人間を超越したものが潜んでいるという教えが地縁的、血縁的に伝播したからである。一方現代は人間同士の結束力は過去に比べてあまりに小さく、血縁的結合でさえも大変小さくなってしまっている。この、科学が蔓延する時代に「自然は畏れ多い存在だから恐れなければいけない」と唱えても聞く耳を持つものはおそらく誰も居ない。そこで出てくるのが、自然を破壊することは道徳上、倫理上反しているということを教育することだ。現代の伝播の方法としてこれが最も効果的である。かけがえの無い稀有なものを傷つけることは道徳や倫理に反していることを教育する、これが今残されている環境問題解決への糸口である。



第三章 人間が目指すべき今後


我々の意識改革としては、自然を傷つけないことを倫理的、道徳的に肯定するだけでは物足りない。現代では倫理的、道徳的にタブーとされているものを、法を犯してでも破ろうとする者が蔓延っているからである。そこで我々が今一度目指すべき自然のため、我々のためになる人間的理想像を述べる。第一節では人間の行動的側面の、第二節では人間の意識側面の理想像を論じる。

第一節 私民から市民へ


 「市民」という言葉はすでに私たちを取り囲んでいる。しかしながら、日本人である我々が使う「市民」と欧米人の使うそれは非常に異なっていることは多くの識者が語っているところである。佐伯啓思氏は 戦後民主主義における日本の社会は「市民社会」ではなく「私民」社会であると苦言を呈している。戦後の民主主義は、個人の権利伸張を図ってきた。そこには、ヨーロッパは人権意識が進んでいるが日本は遅れているというという認定が働いていたとされる。しかし確立された個の代名詞のように使われる「市民」概念が、ヨーロッパでは、いわれるほど個人単位のものではなく、むしろ集団意識と密接にかかわり、国家や民族や地域といった集団への帰属感と不可分のものであることを、実体験として語っている。個と集団という概念は、ことばの上だけからいえば、まったく反対の意味をもつものである。だが、ことばの上で反対だからそれが現実にも対立関係にあるとは限らない。個の意識と集団の意識が相互補完的に密接に関係することもありうることである。verbalな次元とrealな次元は、つねに区別しなければならない。 だが、残念なことに、戦後の進歩的知識人たち――日本も遅ればせながら民主主義を実現しなければならないと考えた人たち――は、この単純なミスを犯してしまった。我々は今一度原点に立ち返って、自己中心的概念から集団を重んじる概念への立ち返りを、過去の先人の過ちを訂正して再認識すべきである。

第二節 エゴからエコへ


昨今の人間は他を重んじずに、自分の利益を最優先に考えることが多い。それが自然の大量破壊にもつながったのである。いわば人間のエゴによる結果である。我々は自然破壊に対して倫理的、道徳的不当性を認知するだけでなく、エゴを捨て去って自然を含めた他に配慮する必要性があるといえる。我々は過去に集団間のつながりを重んじてきた。しかし現代はエゴのたまり場である。他人に対する粗暴な振る舞いや、他人を無と理解していることからの道徳的タブーを見かけるような世の中になってしまっている。しかしそれは簡単なことで解決できる。それは、自然をはじめとした他を重んじることだ。他は自分と同じく感情があることを認知できる人間が少なくなっている。それを今一度再認識する必要性がある。

結論


昨今の人間は他を重んじることを知らないが、それは自然に対しても同様である。人間の傲慢さによって数々の環境問題がもたらされた。しかし環境問題は誰でもなく、人間が起こしたものであるので、人間自身が行動的、意識的に変えていかなければ解決に導かれることは永遠に無いであろう。そこで環境問題の解決法としてヒューマンネイチャー、つまり道徳的、倫理的大本でもって環境を見つめることが大切になってくる。我々は環境問題をマスメディアによって知ったといってよい。しかし我々はマスメディアに頼ってはいけない。それだけでなく、環境問題解決を他に委ねることは誤りである。我々個人個人が意識改革を行うことで環境問題は解決へと導かれるのである。

参考文献表

井熊均『環境倒産―環境による企業淘汰が始まった―』(日刊工業新聞社)
尾関周二『環境思想と人間学の革新』(青木書店)
笹澤豊『環境問題を哲学する』(藤原書店)
市川亀久弥『国家権力の解剖』(TBS)フリタニカ
伊藤哲『ヒューマンネイチャーと社会―近代経済社会を解く思想の扉―』八千代出版



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