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私は1988年9月に奈良県の大和郡山という少し寂れた城下町に生まれた。幼少期私は外で遊ぶのが好きでなく、友人の家か、私の家に友人を呼んで遊ぶ人間だった。激しい運動から逃げるためである。そのことが幸いしたかどうかは分からないが、小学校、中学校ではどうにかまぁまぁな成績を収めることができていた。中学でも周りが塾へ行く中、私はそれに歩調を合わせることなく自分で勉強を図ってきた。そして人生初の受験を向かえた。自分なりに対策はしたのだが、入試問題はそう甘くはなく、問題はわたしが勉強したものと比べて全くの的外れだった。しかし塾にいっておけばよかったなどとは思わなかった。私は併願校であり、今職場として通勤している大阪の私立高校に入学した。高校生活は苦痛そのもので、いままで苦しいことを避けてきた人間にとってはそれがなおさらだった。風紀チェックを筆頭に、ほぼ毎日の朝っぱらからの小テスト。それが日常だった。しかし高校生活は脱線していた軌道を修正してくれたのである。 第二次受験戦争で私は関西学院大学の総合政策学部に合格した。きつい高校生活がだらけていた自らの人生のカンフル剤になってくれたのだった。大学では逆に自由すぎて何をすればいいかに困った。一回生の終わりくらいにやっと自由を知り尽くすことができた。大学四年間で明らかに自らに不足している文章能力もそれとなく養うこともできたし、やはり週四時間ある英語の授業は自分なりに大きな糧となった。それに、自分にとって一番の収益は大学で自ら内に秘めていた積極性がようやく開眼したことだった。大学は今まで学問をひたすら自分でやっていくものだと思っていたが、この大学四年間で、社会参画に向けての基礎トレーニングをしてきたのだなと今になって思う。 大学を卒業して私はとりあえず京都の京田辺の端にひっそりとある父の会社の入社試験に合格した。電気配線工事会社なのだが、入社一年目はそれなりに上司のいうことを聞き、とりあえず会社では会計係という安定したポジションというか、無難なポジションにつくことができた。ひたすらパソコンの画面に向かう作業はあまりに単調で物足りなかった。これが自分の尽きたい職業だったのだろうか。私自身自分に疑問を投げかけた。ついに一大勝負に出る。教職免許の取得である。一年間、家庭教師をかねた結果見事一発で合格、そして恩を返すべく母校に勤めることになった。一年目に持ったクスの生徒たちはうるさかった。暴言が毎日のように飛び交うようなクラスだった。やはり社会という授業であるためか騒ぐ生徒があまりに多すぎた。しかし私は必死で生徒をひきつけるように努力した。それこそその大学時代に養った積極性で。そして彼らは自然と3月には教師との別れを惜しんでくれるくらいの優しい子供になってくれるたのである。 そういえばつい20年前に日本は少子高齢化問題が発生し、ついに日本は人口減社会に突入した。そのときに叫ばれていたのが、大学全入時代の到来である。パソコンの画面に現れた、去年の三年生の進学実績を見ると、昔の自分に大学全入時代なんてうそだよ、と教えてあげたい。ふとわれに返った私は再び作業に移った。 |