自然と女性の関係―環境問題の中に見られる女性差別―

7275 石川詩織





要約

 現在、われわれは環境問題に悩まされている。 自然を一方的に利用することで人間の生活は豊かになった。 しかし、自然環境は破壊され、生態系は崩壊の危機に瀕している。 人間も環境問題という、利益に対する報いを受けている。 環境問題にはさまざまな種類や原因があり、それは人間にとっての環境が自然環境のみではないからだ。 環境には人間・社会環境も含まれており、両者は密接に関係している。 本論文では対人間関係と対自然関係を共同体の構造から読み解くという試みをした。 その中では、環境問題の原因の根底には女性差別や南北問題、文明より自然が劣っているという考え方も見られた。 それらすべての問題が解決しない限り、人間は自らを滅びへと導くしかないだろう。
 まず、目に見える環境問題としては、森林破壊・大気汚染・人口爆発・化学薬品による土壌や水質汚染などが挙げられる。 これらの原因は、森林破壊ならば人間の一方的な資源搾取、土壌や水質の汚染ならば化学薬品や農薬散布などが考えられる。 一方、目には見えないが、環境問題の根底に潜んでいる原因も存在する。 これは女性差別や人生の本来の意味である「常に変化を求めて前進すること」を見失ってしまったことだ。 女性は出産や子育てという生理的機能がより自然に密接であることから、自然とひとまとめに見られてきた。 また、常に変化を求めて前進しない限り、われわれはこの隠された原因に気がつくことはない。 しかし、このふたつの原因は目に見えないため、今までほとんど注目されることが無かった。 人間が問題を早急に解決しようとするときは、たいてい物事の表面しか見ず、「今」を良くすることは考えても、問題を根本的に解決せねば本当の解決ではないことに気付いていないからである。
 女性差別の原因は、家庭で働くことが貨幣として評価されないことにある。 家事や育児など、「女性がすべき」とされている仕事は、女性にとっては全く生得的なものではない。 しかし、その仕事を無視すれば社会の基礎が崩れてしまう。 これに対して「男性がすべき」とされている仕事は貨幣によって評価されるため、経済的な価値がある。 そのため、経済利益を求めるこの社会では、女性が家庭を守ることよりも、男性が働くことの方が尊いと見られているのだ。 だが、女性と男性は性的な役割が異なっており、比べることはできないはずである。 われわれは、こせこせとした生活の中で変化を求めて前進することを忘れてしまったために、そもそも男女に対するこの評価法に問題があると気がつかないのである。
 われわれがこの、環境問題の見えない原因に気付くためには、常に変化を求めて前進し、もう一度、常識や己の認識を見直し、環境問題や女性差別が行われている社会を見直す必要がある。 そして、再び自己の思考を取り戻し、問題の根底にある女性差別に気がつくことができたとき、環境問題を解決することができるのである。















目次

序論

第一章:環境問題と破壊された関係
第一節:現在起こっている環境問題
第二節:人間と自然の関係性
第三節:利益と環境破壊

第二章:女性と男性、自然と文明における不平等性
第一節:女性と自然
第二節:ソーシャル・エコロジー
第三節:女性と自然に対する新たな視点

第三章:真実の生き方
第一節:環境主義のテーマとソロー
第二節:人間の孤独と自然
第三節:「人」として「生」きること

結論

参考文献表












序論
 
 現在、われわれは環境問題に悩まされている。 自然を一方的に利用することで人間の生活は豊かになった。 しかし、自然環境は破壊され、生態系は崩壊の危機に瀕している。 人間も環境問題という、利益に対する報いを受けている。 環境問題にはさまざまな種類や原因があり、それは人間にとっての環境が自然環境のみではないからだ。 環境には人間・社会環境も含まれており、両者は密接に関係している。 本論文では対人間関係と対自然関係を共同体の構造から読み解くという試みをした。 その中では、環境問題の原因の根底には女性差別や南北問題、文明より自然が劣っているという考え方も見られた。 それらすべての問題が解決しない限り、人間は自らを滅びへと導くしかないだろう。
 まず、目に見える環境問題としては、森林破壊・大気汚染・人口爆発・化学薬品による土壌や水質汚染などが挙げられる。 これらの原因は、森林破壊ならば人間の一方的な資源搾取、土壌や水質の汚染ならば化学薬品や農薬散布などが考えられる。 一方、目には見えないが、環境問題の根底に潜んでいる原因も存在する。 これは女性差別や人生の本来の意味である「常に変化を求めて前進すること」を見失ってしまったことだ。 女性は出産や子育てという生理的機能がより自然に密接であることから、自然とひとまとめに見られてきた。 また、常に変化を求めて前進しない限り、われわれはこの隠された原因に気がつくことはない。 しかし、このふたつの原因は目に見えないため、今までほとんど注目されることが無かった。 人間が問題を早急に解決しようとするときは、たいてい物事の表面しか見ず、「今」を良くすることは考えても、問題を根本的に解決せねば本当の解決ではないことに気付いていないからである。
 女性差別の原因は、家庭で働くことが貨幣として評価されないことにある。 家事や育児など、「女性がすべき」とされている仕事は、女性にとっては全く生得的なものではない。 しかし、その仕事を無視すれば社会の基礎が崩れてしまう。 これに対して「男性がすべき」とされている仕事は貨幣によって評価されるため、経済的な価値がある。 そのため、経済利益を求めるこの社会では、女性が家庭を守ることよりも、男性が働くことの方が尊いと見られているのだ。 だが、女性と男性は性的な役割が異なっており、比べることはできないはずである。 われわれは、こせこせとした生活の中で変化を求めて前進することを忘れてしまったために、そもそも男女に対するこの評価法に問題があると気がつかないのである。
 われわれがこの、環境問題の見えない原因に気付くためには、常に変化を求めて前進し、もう一度、常識や己の認識を見直し、環境問題や女性差別が行われている社会を見直す必要がある。 そして、再び自己の思考を取り戻し、問題の根底にある女性差別に気がつくことができたとき、環境問題を解決することができるのである。





第一章:環境問題と破壊された関係

 現在、環境問題に対する関心が高まっている。 環境問題と言ってもさまざまなものがあり、その原因も異なっている。 ただひとつ、すべてにおいて共通していることは、自然に対してであれ、人に対してであれ、自ら行った行為はすべて自分に還ってくるという点である。 第一・二節では環境問題によって破壊された「人間と自然」「人間と人間」の関係、を考え、第三節では人間の利益追求が環境問題の根底にあることを明らかにする。


第一節:現在起こっている環境問題

 現在、環境問題が深刻化し、人類の生存を脅かしている。 そのため、「環境問題」という言葉をよく耳にするようになったが、一口に環境問題と言っても、森林破壊・大気汚染・人口爆発・化学薬品による土壌や水質汚染などさまざまなものがある。
まず、人間は文明を発展させたことで火を使い、自然を加工するようになった。 人間以外の動物は木の枝や石などを道具として使うことがあっても、火を使うことはない。 食事を調理したり、火をたいて暖を取ったりすることができるようになった人間は、他の動物と比べて自然界のさまざまなものを利用できるようになった。
次に、自然を加工することで人間が住みやすい環境を作り、住みよい環境で人間の数は爆発的に増えていった。 人口が増えることで住居を構えるための木を伐採し、多くの食料を得るために見境なく農薬を散布している。 生物は地球上に生まれてから死ぬまで、必ず何かしらの排出物を出す。 人間の場合は、排出物の他にゴミや二酸化炭素が挙げられる。 人口が少なかったころは、人間が好き勝手に廃棄しても、自然の回復力が上回っていたのでそれほど問題にはならなかった。 註1  これは木や水・土壌にもいえることである。人間の数が爆発的に増えたことで、自然の許容量を超えてしまった。
このように、環境問題はすべてに関連性があるのだ。 そして、その事実を知ってもなお、人間は自己の利益を追求するために開発を進め、人口も依然として増え続けているのである。



第二節:人間と自然、人間と人間の関係性

 環境問題を考えるときに、われわれは何を思い浮かべるだろうか。 おそらくそのほとんどが、「人間」と「自然」の関係についてのみ着目しているだろう。 実際、環境問題は、人間が一方的に自然の資源を奪い、削り取ったことで起こった。 しかし、破壊されているのは自然のみではない。「人間」と「人間」の関係も破壊されているのである。註2  球上には、2006年7月現在、192の国が存在している。註3  それらの国々のどこのどの地域に住んでも、人間は平等なはずである。 しかし現在でも、先進国と発展途上国の格差は縮まるどころかますます広がっている。 先進国は発展途上国を救援すると叫んでいるが、現状は、先進国の人々が豊かな生活をするために、発展途上国から安く物資を輸入し、自国の資源を使い果たした先進国が発展途上国から安く資源を得ているのである。 だが、この現状を打開するために、贅沢を覚えた先進国が発展途上国と同じ生活に戻るのは不可能だ。 逆に発展途上国の生活を、すべて先進国に合わせることもできないだろう。 先進国が今のままの生活を続け、さらに発展途上国が技術革新を行うことは、環境問題の悪化に繋がるからである。 だからといって先進国が、自分たちは手にした快適な生活を送ることを発展途上国に制限することは許されない。 人間が人間に対して制限をすることで、そこに上下関係が生まれるからだ。
 このように、環境問題は「人間」と「自然」のみならず、「人間」と「人間」の関係をも破壊しているのである。



第三節:利益と環境破壊

 人間は、いつの時代も少しでも生活が楽になるように努力を重ねてきた。 その過程で農業革命・産業革命・技術革命が起こった。 こうして、人間は自分の力や動物の力を借りて働く機会が減り、機械化が進んだ。 また、同じ過程で、社会は大衆化していったのである。 これは現代でも変わらないことだ。 大衆化した現代では、社会は利益のみを追っている。 もちろん、大衆化したことで、生産力や経済力が上がったことは大きなメリットである。 しかし、それと同じくらいにデメリットも大きい。大衆化社会では、オルテガの「共有地の悲劇註4 」が起こるのだ。
 ひとつの共有地に、何人かの農夫が好きなだけ牛を放つ。 牛が1頭増えることで、農夫にはその牛の分の利益が増す。 逆に、牛が増えたことで共有地の牧草は減るが、それは共有地を利用している農夫全員にとってのマイナスとなる。 だから、今回牛を1頭増やした農夫にとっては、マイナスよりもプラスされる利益の方が多いのだ。 こうして、すべての農夫は自分の欲望のままに牛の数を増やしていく。 この話はもちろんたとえ話だが、大衆化した社会の人々は自分の利益しか考えなくなったのは事実である。 共有地で牛の数が増えれば牧草が足りなくなってすべての牛が餓死するように、目先の利益ばかり追うことは、最終的に自分を含めた全員が破滅への道を歩むという問題性を含んでいる。
 これは環境問題にも言えることである。 ここでは、農薬を例にとって説明する。 人間が密集して住み、単一農作物栽培の方法を取るようになってから、その作物の害虫が大量に発生するようになった。 昆虫が人間の安全を脅かすのは、食糧補給の面で敵となったこと、昆虫が疾病を媒介する2点のみである。 人間は昆虫から作物を守ろうとしてDDTや農薬をあたり一面に散布した。 その毒素は昆虫の体内に蓄積され、昆虫を餌とする鳥も毒素にあたった。 また、農薬をまいた土地の草を食べた牛の乳にも毒素は含まれ、土壌にしみ込んだ毒は水を伝って魚の体内に入る。 そして、最終的には人間の体内に微量だが着実に蓄積されるのである。 しかし、害虫を駆除しようとしてまいた農薬の効果は一時的なものに過ぎない。 結局、害虫を撲滅しようと散布していた化学薬品は、ほかならぬ我々自身が住む地球に向けてまかれていたのである。註5 
 一部の人間は環境破壊の危険性に気付いたが、大部分の人間はその危険性に気付くことがなかった。 もし仮に気付いたとしても、今が良くなるのならば目先の利益を優先するのである。 しかしわれわれは、自分の行いがすべて自分に還ってくることを忘れてはならない。 自然を破壊することは、人間が住む地球を壊すことであり、自分たちで全人類を滅亡へ導いているからである。





第二章:女性と男性、自然と文明の平等性

 第二章では、グリーン派の運動を中心に女性と自然の関係を見直す。 社会に数多く存在するヒエラルキーの根底には、男性の女性支配が、そして人間の自然支配が包括されている。 しかし、男女や自然と文明といったまったく異なる存在を比べることはできない。 われわれはその違いに眼を向けることなく優劣をつけてしまっているので、この評価がそもそもの誤りであることに気がつく必要性がある。 なぜならば、このふたつの関係性は、すべての問題に内包されているからだ。 それぞれに優劣を付けるのではなく、ありのままの姿を認めることで、ふたつの問題を解決することができるのである。



第一節:女性と自然

 現代の社会には、環境破壊だけでなく男女の不平等問題も潜んでいる。 環境問題では「自然」、男女の不平等では「女性」が劣っていると考えられている。 一見すると全く別の問題である「自然」と「女性」に関係性はあるのだろうか。
 グリーン派運動では女性と自然には共通の主張すべき目的があると指摘されてきた。註6  女性の出産・養育・子育てという生理的機能がより自然に密接であると見なされることから、女性と自然はひとまとめに見られてきたのである。 科学革命以降の歴史で、女性と自然は、男性と文明よりも劣るものだとされてきた。 それは現代でも変わらず、今なお根強い女性差別と、自然に対する一方的な搾取が行われている。 この問題について、女性解放運動とエコロジー運動には「平等主義」という共通した観点がある。女性と男性、自然と文明は平等なのだろうか。
 まず、女性についてである。 女性と男性は身体的機能からして異なっているが、女性は賃金が支払われない家の仕事をしているので劣っていると考えられている。 もともと違っているものが賃金を稼ぐか稼がないかで優劣を付けられてしまうことが、そもそもの問題なのではないだろうか。
   社会で「女性がすべき」であるとされている仕事は、女性にとっては全く生得的なものではない。 この仕事とは、家事や育児を指している。 だが、女性が負っている仕事は無視することのできない要求であり、もし無視されれば、社会機構の基礎が解体し始めるため、誰かがしなければならないのである。 これは社会全体が機能するための利他的仕事であり、個人としてもコミュニティとしても「人間性」を創造する仕事なのだ。 この仕事に対して、女性が責任を負っているが、これは女性の生物学的性に内在するものではない。 女性は命を生み教育するが、女性が「自然に」利他的に愛を注ぎ、手助けをするのだとは言えない。 すべての女性が命を生む能力を持っているが、すべての男性が養育に関わっていないわけではないからである。 これは社会的脈絡に大きく左右されている。 ここで重要となるのは、男性支配の社会が、女性が利他的仕事に従事することを真実なのだと想定する社会を作り出したということなのである。註7  女性が「すべき仕事」は男性支配の社会が決めたことであり、それが評価されないのも社会が男性支配だからだ。 それゆえ、男性の方が女性より優れているとは言えないし、生物学的性が全く異なる男女間に優劣の評価をふすことは不可能なのである。
 次に自然についてだが、自然は「口のきけない従属的な存在註8 」として人間に見られてきた。 人間は自然とコミュニケーションをとることができないため、自然の考えていること・思っていることを理解することはできない。 それを良いことに、人間は自然を一方的に利用している。 自然を利用することで、人間の生活は豊かになった。 反面、人間の社会は落ち着きなくこせこせしている。 しかし、人間に利用されているはずの自然は、社会の喧騒とは無縁であり、存在感に重みがあるのである。 これはもっとも根源的に事実である。便利になった人間の生活には、自然ほどの存在感は感じられず、どこか虚空な感じがする。註9  これは人間の社会が利益ばかりを追求し、男尊女卑という誤った形を形成し続けた偽りの社会だからである。 それゆえ、人間の築いた文明が自然を凌駕しているとは言えないだろう。
 よって、女性と男性、自然と文明の間には優劣はないのである。 男性は会社で賃金を稼ぎ、女性は家で家事・出産・育児などをする。 賃金のあるなしのみで優劣をつけるのではなく、それぞれに合った仕事をするべきなのだ。 これらを平等に見るためには、これまでの歴史とこれからのことを、女性の目だけでなく、今まで無視されてきた社会集団や民族集団、自然環境の目から新たに見ることだ。 そうすることで、歴史をひっくりかえすことができる。 そして、社会構造を根底から見ることで、主流的な価値観をひっくりかえすことができるのである。註10 



第二節:ソーシャル・エコロジー

 ソーシャル・エコロジーは「人間」と「自然」の関係より、「人間」の「人間」に対する支配・搾取に焦点を合わせている。 自然支配は、人間による人間の支配から生まれた概念なのである。 より詳しく言及すると、経済階級による他の経済階級の支配や、植民地権力による植民地住民の支配だけでなく、男性による女性の支配、年長者による若年者の支配、ある民族による他の民族集団の支配、国家による社会の支配、官僚制による個人の支配から生まれてきたという確信がある。だから、工場や経済だけでなく、家庭や精神の自由を追求せねばならない。社会のもっとも分子的な関係を変えなければ、たとえ階級差別や搾取のない社会主義的形態においてでも、社会は支配に蝕まれるだろう。 この「分子的な関係」は、特に男性と女性や白人と他の民族集団の関係を示している。 われわれの住む社会は、ヒエラルキーだらけなのである。註11 
 ソーシャル・エコロジー以外のエコロジーは、ヒエラルキーをなくすことを考えていない。 現存制度や社会関係、テクノロジー、価値観を変革することよりも、それにいろいろと手を加えることに基礎をおいている。 そこでは、自然は人間に役立つようにされなければならないと見なされている。 自然は単に受動的な動植物の生息環境、外的な事物と力の集まりと見なされるので、現在の社会の磯にある観念、とりわけ人間が自然を支配しなければならないという観念に疑問を持つことはないのである。 逆に、人間の自然支配によって引き起こされる危害を減らすための技術を発展・開発することを目的にしている。 これは、人間の自然支配を助長しようとしていることになるのである。 また、人間の自然支配を助長しようとしているにも関わらず、有権者は「エコロジー」という響きにだまされ、その活動の表面しか見ないのである。註12 
 だからこそ、ソーシャル・エコロジーは、エコロジー的危機をもたらすヒエラルキー的支配の核心を考えなければならない。 人間の人間支配という問題の根本を解決しない限り、自然支配は存在し続け、環境問題を解決へ導くことはできないのである。



第三節:女性と自然に対する新たな視点

 環境問題の根本には、女性と自然の親密な関係があると考えている運動家は多い。 女性に対する支配と自然略奪には同根の、家父長制という原因があると考えられるからである。 エコロジーと家父長制の関係を考える環境思想は多く、その代表としてはエコフェミニズムが挙げられる。
 女性の家事労働や育児は金銭的評価を受けることがない。 また、女性が会社で働いていて、男性と同じ仕事をしていても、女性の賃金は男性より低いのが現状である。 女性は男性より劣った存在として扱われていることが分かる。 しかし、自然や宇宙を表す時には、「女性」を使うことが多い。 たとえば、「母なる大地」や「母なる地球」などである。 女性は男性よりも劣って見られているが、実際に子孫を残すために子を生むのは女性である。 そこから、人間が生きて行くための恵みを与えてくれる自然や、われわれが住んでいる地球を「母」という言葉を使って表すようになったのではないだろうか。 逆に、神に対しては「父なる神」と男性を使って表している。 神は人間のみならず、この世の万物を作ったと考えられている。 動物、水、大地、植物などである。そこから考えると「自然<神」という図式が浮かび上がってくる。
 人間がまだ、自然を支配しようと考えていなかったときや、支配しようと思っても自然の力に負けていた時、人間の目は自然に向けられていた。 しかし、技術の革新が進み、だんだんと思いのままに自然を利用できるようになってくると、自然に対する畏敬の念は薄れていった。 そのうちに、人間の目は、自然から人間に向けられるようになっていった。 人間が人間に注目するようになったため、「人間の人間支配」というヒエラルキーが出来上がったのである。
 問題の根底にあるのは、やはり男性による女性の支配である。 歴史的に、女性は知的生活、精神的労働に近づきにくかったので、現在、女性はその抑圧からの解放のために闘っている。註13  環境主義者たちは、人間と自然の相互的結びつきを強調するエコロジー的倫理を発展させている。 このふたつの運動の目的は、「男性、女性双方の素質の十分な発揮と環境の完全な状態を保持することに基礎をおく、新しい価値観と社会構造を提示すること註14 」である。





第三章:真実の生き方

 第二章までは環境問題を使って、その根底にある「男性と女性」や「自然と文明」の不平等について考えてきた。 この章では、ヘンリー・D・ソローの考えを中心に人生について考察を進める。 メキシコ戦争と奴隷制度に反対して税金を納めなかったために投獄されたソローは、「平和を願い、真の民主主義を個人が奪還するための見事な実践的行動註15 」をした人物であった。 ソローの述べた「常に変化を求めて前進すること」や「自然の生き方に啓発されて、自らも無限に自己感性を努めること註16 」は、現代に生きるわれわれに欠けているが人生において重要なことではないだろうか。 この欠落を埋めることができれば、われわれは環境問題や女性差別を解決することができるのである。



第一節:環境主義のテーマとソロー

 第二章までに述べてきた環境主義の基本テーマと、本章で述べるソローの提示した問題の核心は同じである。 それは「人生をどう生きれば良いか」、また、「人生に意味を与えるものは何か」ということだ。 「社会が加速度的に激しく変貌している中で、人々の意識も時代の速さに合わせるかのように物質文型に現を抜かす。 『どうしてわれわれはこうもせわしなく人生の無駄遣いをして生きてゆかねばならないのか』とソローがたえず問い直すのは、まずは『止まって』、自分の置かれた位置と関係を悟らせるがためである。註17 」 人間は利益ばかりを追って生活しているうちに、人生とは何かを忘れ、「生きる」ことすらどこかに置いてきてしまった。 いつからか人間は、生きるのではなく、ただ日々を過ごすのみになってしまったのである。
 人間は「自分の認識力を鈍化させ、いつも最低レベルまで落としておきながら、そうしたものを普通の感覚(常識)として崇拝し」、「馬鈴薯の腐敗よりも驚くべき勢いで、致命的、かつ広範囲に拡がっている頭脳の腐敗防止にどんな努力もなされていない註18 」のである。 人間は権力・秩序・常識に盲目的に従うことで生きている。 しかし、われわれが人間として生きるためには、環境問題に対しても社会に対しても、自分の思想を手放してはならないのである。
 また、その人間の歴史は文明の観点のみから考えられてきた。 動植物は有機的な自然の流れの中で活動するが、人間の文明化はあえて自然の流れから乖離しようとするものであった。 自然の流れから離れようとする人間の文明発展は、いつのまにか人間と自然との間に物理的かつ心理的な距離を生じさせた。 最終的には、これが「自然の征服と同義」となるのである。註19  人間は文明を発展させる過程で、大きな責任と重荷を負わねばならなくなった。 しかし、「認識力を鈍化させた」人間はその事実に気が付かなかったのである。 現代人は文明発展の代償を重々承知しているが、それでも目先の利益のみを考え、責任を擦り合っている。 その日暮らしの「刹那的」な生き方では、諸問題を解決することは不可能だ。 われわれが問題を解決するためには、自分の認識や常識を考え直さなければならないのである。



第二節:人間の孤独と自然

 ソローは森に入って数週間が経った頃に、「近所に人が住んでいるということは平穏で、健康な生活にとって不可欠なことではないのか註20 」と考えた。 一人でいるのがどこか不愉快だったからであるが、こうした想いが心の中に浸透して、自然に包まれることで、人が近所に住んでいると便利だというのは自分勝手な空想だと気がついた。 なぜならば、われわれがいくら脚を運んだところで、2つの心をお互いに近くに寄せることはできないからである。 孤独だと感じるのは心なので、孤独はその人と仲間を隔てる空間の距離によって計算されるものではない。註21  人里から離れることでわれわれが孤独だと感じるのは、周りに人がいないからではなく、周りに目を向けていないからなのである。 自然の中にあるのに、村人のことを考えていては、体のいる場所と心の向かう場所がバラバラになってしまう。 そのときに味わうのは「物理的距離」の孤独である。 しかし、孤独は物理的距離で計ることのできるものではないから、この孤独を感じることは誤っているのである。 加えて、「孤独」は悪いものではない。 最も親しい人とでも一緒にいると、やがて退屈になり散漫になるからだ。註22  だから、孤独な時間が多くなれば、意識が散漫になることはないし、ほかの人から離れて孤独を味わうことは、自分自身と向き合う時間を作ることにつながるのである。
 また、私たちが一番住みたいところは大勢の人にとっては人々が一番集まる駅や学校かもしれないが、そうではない。 永遠につきはてることのない生命の泉がわく、自然の中なのである。 周りの自然に関心を向けてみると良い。そうすることで、人間に支配されない、自然独自の正義に気が付くことができるだろう。註23  だからソローは、近くに住民がいなくとも孤独を感じることはなかった。 人間は文明を発展させる過程で、自然を支配の対象として見るようになっていた。 しかし、人間も他の動植物と同じく、自然の中に生きており、自然なしには生きることができないのだ。 それゆえ、人間にとって最も近い血族である「自然」を破壊することは、人生に意味を与える材料をなくすことなのである。



第三節:「人」として「生」きること

 人間は自然を支配下におき、一方的に利用することで生活を豊かにしてきた。 文明を発展させるうちに忘れてしまったが、人間は他の動植物と同じように、自然の中で生活しているのだ。 自然なしには生きられない人間が自然を支配することなど、端から無理な話だったのである。 しかしそのことに気付くことができなかった人間は、文明発展のみを望み、その結果として環境問題に悩まされている。
 今までに、人間はやっきになって自然を支配しようとし、文明を発展させてきた。 しかし、この文明社会で人間は自分の人生を歩むことが出来ているのだろうか。 実は、貧しい生活の人がもっとも自立した生活を営んでいるのである。註24  大衆化し、功利主義の社会では、人々は目先の便利さだけを追求した。 社会を発展させるためには統一が必要であり、人間は貨幣を作り出した。 経済的利益は手段であるが、いつのからか人間は、金を集めることが目的だと勘違いをしたまま生きるようになった。 しかし、あらゆる生物にとって、唯一の生活必需品は「食物」であり、豪邸でも多くの貨幣でもない。 金は生きるための手段であり、目的ではないのである。
 だから、「生活のレベルが少し下がっても、心の豊かさがもう一段だけ向上すれば失うものは何もない。註25 」 人間がやっきになって求めてきた富は、余分なものを購入させるだけである。 心の豊かさとは、本当に幸福な気分になることで得られる。 それには、めったにない機会が与えられて、考えたり、述べたり、あるいはそれを実行に移すことが必要となる。。註26 
人間が自分の夢に向かって自信をもってまっしぐらに進み、自分が想像したような生活を送るように努力すれば、普段考えてもみなかったような成功にめぐり合うだろう。註27 
 そのために、「常に変化を求めて前進することが、自分の認識力を鈍化させない賢明な生き方。註28 
」なのである。 人間が社会に対してただ従うだけでなく、自己の本姓が命ずる法則に従うことで、自分がどのような態度をとっているか気付くことができる。 ただ日々を過ごすのではなく、自己自身であろうとすることが大切なのである。





結論

 環境問題は人間と自然の関係を破壊するが、それだけではなく人間と人間の関係も破壊している。 人間は文明を発展させるために自然を利用し、社会を統一するために貨幣を使った。 貨幣経済が主流になると、人々は自己の利益のみを追い求めるようになった。 すべての人間が自己利益を第一に求めることで、自然は見境なく搾取され、人間同士にも経済格差によって先進国と発展途上国に分かれてしまった。 さらにその根底には、女性差別が潜んでいる。女性の出産・育児という生理的性が自然に近いと言う考えから、女性よりも男性が、自然よりも文明が優れていると考えられているからだ。 しかし、それぞれが違うものなので、比べることはできない。 従って、男女や自然と文明に優劣をつけるという評価は不可能なのである。 われわれが「人間と人間」の間でこの考え方を改めない限り、「人間と自然」の関係は改善されず、環境問題が解決することもない。 われわれは環境問題を解決するために、常に変化を求め、社会の風潮に惑わされずに、自己自身であろうとすることが求められているのである。










脚注


1.サンディー・アーヴィン、アレック・ポントン 「人口爆発」、アンドリュー・ドブソン編 『原点で読み解く環境思想入門』 松尾眞ほか訳、ミネルヴァ書房、1999年、53頁参照。 >>>本文へ
2. マレイ・ブクチン 「ソーシャル・エコロジー」、同上、54-55参照。 >>>本文へ
3.http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/ 引用。 >>>本文へ
4.ギャレット・ハーディン 「共有地の悲劇」、ドブソン編 『原点で読み解く環境思想入門』 松尾眞ほか訳、ミネルヴァ書房、1999年、28-31頁参照。 >>>本文へ
5.レイチェル・カーソン 『沈黙の春』 青木築一訳、新潮社、2001年、27-28、33-55、325頁参照。 >>>本文へ
6.キャロリン・メーチャント「女性と自然」、ドブソン編 『原点で読み解く環境思想入門』 松尾眞訳、ミネルヴァ書房、1999年、277頁引用。 >>>本文へ
7. メアリ・メラー 『境界線を破る!』 壽福眞美訳、新評論、1993年、287‐288頁参照。 >>>本文へ
8. キャロリン・マーチャント「女性と自然」、アンドリュー 『原点で読み解く環境思想入門』 松尾眞訳、ミネルヴァ書房、1999年、277頁引用。 >>>本文へ
9. 上岡克己 『森の生活』 旺史社、1996年、96頁参照。 >>>本文へ
10. キャロリン・マーチャント「女性と自然」、アンドリュー 『原点で読み解く環境思想入門』 松尾眞訳、ミネルヴァ書房、1999年、278頁参照。 >>>本文へ
11. マレイ・ブクチン「ソーシャル・エコロジー」、アンドリュー 『原点で読み解く環境思想入門』 松尾眞訳、ミネルヴァ書房、1999年、54-55頁参照。 >>>本文へ
12. 同上、56頁参照。 >>>本文へ
13. ジュディス・プラント「エコフェミニズム」、アンドリュー 『原点で読み解く環境思想入門』 松尾眞訳、ミネルヴァ書房、1999年、97頁参照。 >>>本文へ
14. キャロリン・マーチャント「女性と自然」、同上、278頁引用。 >>>本文へ
15. ソロー 『森の生活』 佐渡谷重信訳、講談社学術文庫、1991年、487頁引用。 >>>本文へ
16. 同上、488頁引用。 >>>本文へ
17. 上岡克己 『森の生活』 旺史社、1996年、95頁引用。 >>>本文へ
18. ソロー 『森の生活』 佐渡谷重信訳、講談社学術文庫、1991年、467頁引用。 >>>本文へ
19. 上岡克己『森の生活』 旺史社、1996年、98頁参照。 >>>本文へ
20. ソロー 『森の生活』 佐渡谷重信訳、講談社学術文庫、1991年、199頁引用。 >>>本文へ
21. 上岡克己 『森の生活』 旺史社、1996年、129頁参照。 >>>本文へ
22. 同上、129頁参照。 >>>本文へ
23. 同上、130頁参照。 >>>本文へ
24. ソロー 『森の生活』 佐渡谷重信訳、講談社学術文庫、1991年、470-472頁参照。 >>>本文へ
25. 同上、472頁引用。 >>>本文へ
26. 同上、474頁参照。 >>>本文へ
27.同上、464頁参照。  >>>本文へ
28. 同上、488頁引用。 >>>本文へ














参考文献表

1.レイチェル・カーソン『沈黙の春』青木築一訳、新潮社、2001年。
2.ヘンリー・D・ソロー『森の生活―ウォールデン―』佐渡谷重信訳、講談社学術文庫、1991年。
3.ヘンリー・D・ソロー『市民の反抗 他五篇』飯田実訳、岩波文庫、1997年。
4.上岡克己『森の生活―簡素な生活・高き思い―』旺史社、1996年。
5.アンドリュー・ドブソン『原点で読み解く環境思想入門―グリーン・リーダー―」松尾眞、金克美、中尾ハジメ訳、ミネルヴァ書房、1999年。
6.フィリップ・シャベコフ『環境主義 未来の暮らしのプログラム』さいとうけいじ・しみずめぐみ訳、どうぶつ社、1998年。
7.メアリ・メラー『境界線を破る!―エコ・フェミ社会主義に向かって―』壽福眞美、後藤治子訳、新評論、1993年。
8.アイリーン・ダイアモンド『世界を織りなおす―エコフェミニズムの開花―』奥田暁子、近藤和子、學藝書林、1994年。













目次へ