【西暦2027年に自分の人生を振り返る】
【アジアの架け橋】
2027年に自分の人生を振り返る
学籍番号6183 井上 悠一郎
2027年4月某日、41歳になる私は台湾へ向かう飛行機の中にいた。眼下には大海原が見渡せる。そして日本から台湾までの距離を思う。自分の歩んできた人生を思う。
1985年5月27日にアメリカはシカゴで生を受ける。3歳のときに日本に帰国し、5歳のとき父の会社の都合により台湾へ。台北日本人小学校に入学し、小学4年生までこの地で過ごす。ここでの日々は今も良い思い出であり、自分の人生に大きく影響を与えている。その後帰国し、大阪は住吉に移る。このとき自身の傲岸な性格のため周囲の環境にうまく溶け込めなかった。翌年神戸に移り、上野中学校に入学すると友人に誘われて野球部に入部し、塾にも通った。この時期はスポーツに勉強に努力していたつもりだ。その後、神戸高校に入学。伝統を重んじ、文武両道をモットーとする高校であった。ここでも野球部に入部した。しかし勉強と部活の両立はできず、野球一色の日々を過ごす。結果としてよい成績は残らず、今でも自分を責めるときがある。その後2年間浪人し、幅広い分野の学問を学ぶことができるので興味を持った関西学院大学総合政策学部に入学する。以前からやりたかった音楽をするため軽音サークルに入り、運動をするため野球サークルにも入ったが、学業がおろそかになってしまう。ついに秋学期は体調を崩し学校にさえ行かなくなった。
このままではいけないと心機一転し、3年生になるとエコロジー政策コースに入り、環境について学ぶ。それは当時、世界規模で進む環境変化についてよく報道されていて、関心を抱くようになったからだった。また、英語や中国語などの外国語も勉強し、海外で通用する程度までになる。大学を4年間でなんとか卒業し、神鋼環境ソリューションに入社。そこでは下水道設備などのわれわれの居住する環境にかかわるシステムや製品を開発・販売している。この会社を選んだ理由はやはり地元の企業ということで親しみを覚えていたからだ。自分は営業部に所属し、主に台湾や中国などのアジア地域に向けて製品を販売する。はじめは戸惑うことも多く、何をしたらいいかわからなかった。しかし大学で身に付けた国際感覚や能力を十分に活用し、徐々に仕事にも慣れていく。大きなプロジェクトも任されるようになり、会社に貢献できるようになった。
空港に着くとまずコーヒーを一杯飲んだ。落ち着いてはいられない。これからすぐ得意先に向かわなくてはならない。自分はまだまだやるべきことがある。日本と台湾の架け橋になるために。
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