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7283 藤井望 <はじめに> 私たちは社会を構成し、そしてその中で生きている。私たちは社会と何らかの契約を交わし、そしてそれに基づいて生きているのだ。人間は生まれた時から自由であるが、自由であると同時に社会という鎖にも繋がれているのである。 では私たちは自由でありたいがために、社会との契約を破り生活していくことはできるのだろうか。また社会契約とはそもそもどのようなものなのだろうか。 <社会とは> あらゆる社会の中でもっとも古く、ただ一つ自然なものは家族だと著者は述べている。家族の関係が続いているのは自然状態ではなく、彼らの意志に基づいているからであり、家族そのものは約束によってのみ維持されているというものである。これには私も納得をした。子は独立するまでは親の保護を必要とするが、独立するとそれまでのような親の保護を必要としなくなる。だが、著者の言うように子が独立してしまってからの家族は当人同士の約束でのみ成り立っているというのには疑問を感じる。理論的には著者の述べる通りなのかもしれないが、実際の家族とは決してそれだけの繋がりではないのだと思う。確かに家族は組織であり、親を代表とする年長者を組織の長として構成しているのが一般的である。そこでは年長者を為政者、子供たちを国民といったように社会に例えることも可能である。国と国民の観念からすると、約束で成り立っているという考えは成り立つと考える。何故ならば為政者と国民の間には極端に言えば何の繋がりもなく、国民の意志によりその為政者の治める国に定住しているからである。だが、家族には血の繋がりがある。血縁関係にある者達程難しく、そして深い絆で繋がれている者はいない。理由もなく頼ることができ、安心を与えてくれる家族というものが、国と国民のように簡単に離れてしまうものだとは到底考えられない。家族には愛がありそれは無償と言えるであろう。確かに社会の始まりではあるが、国と国民と同様に考えるのは難しいと感じた。 <ドレイ状態> 著者は、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては約束だけが残ると述べている。「約束」ということを何度も繰り返しているが果たして約束とはどのようなものなのか。ドレイについて考えてみると、そこに約束はあるのだろうか。生活のために自らドレイになる者もいたかもしれないが、自らの意志とは逆にドレイとなった者も少なくはない。ではその時、彼らの間に約束はあったのであろうか。主人になる側としてはドレイを買う際お金を払い契約を交わす、ということが約束になるのだろう。しかしそれはドレイとなる個人との約束でないことは明らかであろう。その場合ドレイとなる彼らに人間にあたえられている権威の基礎はないことになってしまう。 また国王と国民の場合についても考えたいと思う。国民は自らを国王に預け生活しているのだろうか。先に述べたドレイについて、最初の約束は成り立たないかもしれないが、そこには主人から身を養ってもらうための食糧などを得ることができる保障がついているだろう。そうなるとドレイは自分の労働力を主人に捧げる見返りとして食糧をもらえることで、契約が成り立つ。双方にとって明らかな不利益はないからである。しかし国王と国民では違ってくるだろう。著者も述べているように、国王は国民に対して食糧を与えるわけでもなく、逆に引き出しているからだ。そうなると国民が国王に身を預ける理由は見当たらなくなる。良い国に治めているからといって国王に身を全て譲り渡すことはしないだろう。もし仮に国民が自らを全て預けてしまうことができる国があるとすれば、その国王はよっぽどの信頼を得ているのだろう。ただそのような国王はほとんどいないであろうが。 ドレイというものは成り立たない。その存在は無意味であり、約束など最初から成り立つわけがないのである。また、社会契約という点から見てドレイの主人と思っている人も主人ではなく、むしろその人でさえも自由を持たないドレイと考えられるだろう。 <社会契約とは> では社会契約とはどのようなものであろうか。一般的な理解からいえば個人と社会との間の契約と考えてしまう。だが「社会」との契約などどのようにしてできるのだろうか。また、仮にできたとしてそれはいつ結ばれるのだろうか。 どのようにしてかと考えたらそれは生活していること、主権者として国政に参加するということなのではないのだろうか。またいつ結ばれるかという疑問にも同様の答えがでてくる。その社会に生まれ生活をしている以上私たちは社会の一部なのであり、社会を存続させていき自らの利益を守るために契約を結ぶということになるのだろう。よって、いつ結ばれたかと考えればそれは生まれた時からであると私は考えた。 ルソーは一般意志を大切に考えている。一般意志は国民の総意であり、公共の善を第一に考えたものであるからだ。公共の善を目指すことは国民にとっての利益である。それは法という形で社会に存在しているのではないだろうか。私たちの生活は法によって縛られているとも考えられるが、法によって守られているとも考えられる。だが、その法は私たちに不利益を与えるものでは決してない。もしそのような法が成立しようとしたならば、一般意志に背くことになり契約は成り立たなくなるだろう。一般意志は壊れることはない。どんな時にも我々は一般意志を意識せずにはいられない。ルソーによると人民の一般意志は絶対的であり、あやまることもなく、例外も認めず、他人に譲りわたすことや分割できないものである。一般意志は主権ともとれる。国民の意志なのだから当然のことではある。最高の決定者でもあり、国の方針はこの一般意志から見出すことができるだろう。 <まとめ> 結論から言って私たちは社会契約からは逃れられないだろう。社会契約とは私たちが暮らしていく上では必要なものである。それは一般意志からきているものであり、主権となるものだからである。ルソーの述べる社会契約とは「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受けとるのだ。」という言葉に集約されていると感じた。このような一般意志を大事にする考えは、それまでの社会や国の考えをくつがえすことになり、それが後の革命に大きな影響力を与えたのである。 参考文献 ルソー 『社会契約論』 岩波文庫 |