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─愛情と欲望の観点から─ 7283 藤井望 目次 序章 第一章 家族の意味 第一節 過去の家族 第二節 現在の家族 第三節 未だに家族が存在する理由 第二章 ゲマインシャフト・ゲゼルシャフトの観念から 第一節 ゲマインシャフトで考える父親と母親 第二節 ゲマインシャフトで見る家族 第三章 家族が与える影響 第一節 幼少期の人格形成 第二節 理想の家族環境 結論 <序章> 私たちは社会の中に生きておりそこから逃れることはできない。社会から逃れることは、それはすなわち死と考えられる。だが私たちは最初から国家規模の社会に属しているわけではない。(もちろん「国民」としてはその国に属している。)私たちが最初に属する社会集団というものは家族である。しかし経済発展が家族のあり方を変えた。映画「もののけ姫」のタタラ場において、夫婦は登場するが子どもが登場しないことも経済発展が理由だと考えられる。昔から存在していた父親の種の保存を優先させた「家族」は時代と共に変化し、それと同時にそのことが私たちの他人への考え方を変化させた。家族の影響は大きい。何故ならば私たちは家族から、愛情を注いでもらい、食べ物を与えてもらい、また家族以外の社会について教わるからである。つまり、人間が生まれて一般的に大人と言われ、援助を必要としなくなる段階に至るまでには、家族という存在が必要不可欠要素なのだ。また、人格形成や思考回路にも家族の影響は及ぶ。柔らかい頭をもち、何でも吸収する幼児期において父親や母親の言動、行為は絶大な影響を与えるものだからだ。したがって、家族のあり方を見直すことで現代における人間関係の希薄さの理由、また改善策は見出せる。 <第一章 家族の意味> 私たちが一般的に定義している家族とは、夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団のことである。この定義は、過去から現在においても私たちが血縁者とともに暮らし、その構成員を家族と認識していることから変わらない定義であるとここでは考える。そこで第一節において過去における家族の意味を、第二節において現在における家族の意味を提示することとする。そして、第三節では基本的な定義が変化していないのに何故家族のあり方が変化したかについて述べ、その存在理由を明らかにする。 <第一節 過去の家族> 日本の過去の家族について考える。日本の家族は父親を中心として成り立っている。父親が収入を得て、母親は家事をする。そして遺産の相続相手は長男というのが一般的であった。日本ではいわゆる男尊女卑の考えが主流であり、家族の者が父親にはむかうといった行為をすることはなく、父親は尊敬の対象であり、また恐れる対象でもあった。このような関係が家族の結束力をより強固なものとしている。この強い家父長制度が確立された原因は父親にある。ラッセルによると子供が自分の「種」であることがわかると父親には権力愛と死後も生き残りたいという願望が生まれる。子供が生まれることにより、自分の野心は自分の代で止まることなく子供を通じて後世に無限に広げることができるからである。また、ラッセルは「家父長制社会において嫉妬が極端に強くなるのは偽物の子孫が作り出されることに対する不安によるのである註1 」と述べている。仮に生まれてきた子が嫡出ではないとしたら、父親は自分の「種」ではない子に愛情を持つことはない。血縁関係がない子に自分の野心は継続されることはないと考えられるためである。つまり「嫡出の子は、男性の自我の継続であり、その子に寄せる愛情は、エゴイズムの一形である。註2 」父親は妻の浮気をとても恐れた。よって、妻がしっかりした考えを持つと、夫を欺き嫡男を得ることができないと考え、男性は女性を隷属させたがったのである。このような考えから「大半の文明社会では、女性は、世間と仕事の経験をほとんどすべて拒まれてきた。女性は人為的に、愚かで、したがって、つまらない存在のままにしておかれた註3 」のである。現代でも日本に残る祖先崇拝は、父親が子供に対して絶大な権力を持っていたことの表れでもある。子供が、特に娘は、結婚をする際は父親の承諾は必要不可欠なものであったし、結婚相手を父親が決めることも普通のことであった。また「女性は、生涯のいかなる時期にも、独立した生活をすることがなかった。最初は父親に、続いて夫に隷属したから註4 」である。このような父親の意識により、家父長制は継続していったのである。 <第二節 現在の家族> しかし、経済発展とともにこのような強固な家父長制は崩れてきた。日本でも未だに家族には家父長制は維持されているが、その力は以前に比べればとても脆くなっている。経済発展により、主な産業が農業から工業へと変化した。農業をするのには人員が必要であり、それを確保するためには多くの子供が必要であった。しかし、工業化が進むにつれ、人員はそれほど必要ではなくなり、多数の子供も必要ではなくなってきた。自分の野望を受け継がせる種が減ることは父親の家庭における力をも減らしている。また労働の形態も自営業から会社からの雇用形態に変化したことで、女性の社会進出も進んだのである。前記したように、男性は妻が賢くなるのを恐れて、つまらない愚かな存在にしてきたのである。女性の社会進出はそのような意味においても家父長制に打撃を与えた。また、国の制度が以前と比べて格段と良くなってきたのも理由にあげられるだろう。国の補助制度が確立していない場合では、家族を敵から守り養っていくのは父親の役目であり、また父親が存在しているということで子供に社会にでてからの不利益、例えば出世など、を受けずに済んでいた。しかし、現在の国家はこのような父親の役目の大半を担っている。父親がおらず、生活が苦しく食べ物にまで困っていると国は生活保護という形で母子を扶助してくれる。また、現代において父親が存在していないという理由から社会にでて不利益をこうむることなどない。国家の家庭への介入は父親の存在理由をますます小さくしていったのである。ラッセルも述べているが、父親は働き夜遅くに帰宅し、子供と触れ合う時間がほとんどないのが現状である。またそれが、子供から考えてみれば父親とは仕事第一であり、家族のことは省みない大人としてとらえられてしまう。父親と子供の間に相違が生まれ、ますます家族は脆くなっていってしまうのだ。また、家族が教えていた知恵も今では学校が教えることが当然であり、子供は嫌でも国家の教育を受け、国家の考え方を植え付けられていくのである。これまで述べたように経済発展、国家の介入が家父長制を脆くしてきたのは明らかであるが、それと同時に個人主義論が発達したことも見逃せない。これまで両親の命令どおりに行動してきた子供が自分自身の意思によって行動することを希望し始めたのだ。「子供は、生計の手段であったのに、今度は経済的な負担となった註5 」のである。しかし、父親がいないから国が母子を援助をするというのは明らかに男性的な価値観からである。国家も男性的な視点を持ってると言わざるを得ないのだ。 <第三節 未だに家族が存在する理由> これまで家族の短所を主に述べてきたが、では上記したような理由が存在していても家族が未だに存在しているのは何故なのであろうか。父親の役割を国家が担い、家族の構成員がそれぞれの個人主義を叫んでいるのにそれでもなお、家族という形が崩壊しないのには何かしらのメリットがあるからと考えられる。その一つに子供に対する心理的影響があると考えられる。子供にとって「両親が重要な理由は、自分の兄弟姉妹を除いて、ほかのだれにもあたえられない愛情を両親から受け取る 註6 」ということである。愛情とは子供の成長にとって良い面、悪い面どちらにおいても多大な影響を及ぼすものである。また経済的理由も大きいと考えられる。家族は結束力こそ以前と比べれば脆いものになったが、食事などの生に関わることへの支出の源はみな同じなのである。また子供がいくら個人主義論を叫ぼうとも、独立しないうちはまだ親の管理下にいて親の収入で生活をしていくのが主である。またそれと同時に親にも子を育てる義務が発生している。子が生まれた時から親には子を育てるという契約が生まれ、同時に家族も出現する。だが、それは子供が自分ひとりでは生きていけない間のみであって、成人してからはその義務はなくなる。つまり、そこで本来ならば家族としての役割は終わってしまっていいのである。しかし、子供は成人した後も家族という関係を維持し続けるのが一般的だ。今まで受けてきた愛情、生活面での援助などから子供は簡単に家族を捨てることはない。つまり、ここで両親と子供をつなぎとめ家族という形にとどめさせているものは子供側の意志ということになる。個人主義を叫びながらも結局は自分自身で家族の存在を求めているのである。精神的な安らぎを家族に求める点から考えると家族はこれからも続いていくと考えられる。 では、社会制度としてはどうであろうか。最初にも触れたように家族は社会集団であり、その存在は社会に大きな影響を与える。仮に家族が崩壊したとして我々は家族の存在なしに生きていけるだろうか。仮想とはいえ、不可能であると思う。人間は家族のようなものをまた社会に求めるようになるだろう。つまり、家族が崩壊してしまった後の代わりのものを用意しなければならなくなるのである。しかし、家族のように血縁関係で結ばれてもおらず、自分の種を残せるわけでもない集団を我々は受け入れることができるだろうか。また、家族に代わる社会制度を作ることはそう簡単ではないことは容易にわかる。我々は利益の多い家族を捨ててまで他の集団に属することはない。したがって、家族の形態は変化していっても、家族の存在そのものは少なくとも家族に代わる社会制度が確立しない限り崩壊しないと考えられる。 <第二章 ゲマインシャフト・ゲゼルシャフトの観念から> これまでに経済的な面から家族について論じてきた。しかし経済的面からだけでは家族を意味することはできない。家族には経済的面からでは説明のできない問題も生じる。そこで考えなければならないの、ゲマインシャフト的な考えである。テンニエスによると「ゲマインシャフトは持続的な真実の共同生活であり、ゲゼルシャフトは一時的な外見上の共同生活にすぎない。だからゲマインシャフトそのものは生きた有機体として、ゲゼルシャフトは機械的な集合体・人工物として、理解されるべき 註7 」ものなのである。人間が生まれて、家族と共にいろいろな経験をしながら暮らすことはゲマインシャフト的生活を送っているということであり、家族以外の社会にでることは、ゲゼルシャフトの中に飛び込んでいくことなのである。これまで述べてきた家族の意味や存在理由はゲゼルシャフト的なものであったが、ここではゲマインシャフトから考える。第一節ではゲマインシャフトで見る父親と母親を、第二節では同じくゲマインシャフトで見る家族について言及する。 <第一節 ゲマインシャフトで考える父親と母親> 第一章にて子供は自らの意志で家族という制度を続けていると述べた。そして「人間がつねに意志によって互いに有機的に結びつき、互いに是認しあっている処には、いずれかの種類のゲマインシャフトが存在する註8 」のである。テンニエスによると人間関係の普遍的な基礎は出生に関連しているという。「人々の意志は、その各々が肉体の構造と対応関係にあるかぎり、血と性によってたがいに結び付けられており、また結ばれつづけ、あるいは必然的に結び付けられる事実 註9 」があるのである。母子の関係が例にあげられるが、母と子の関係というものは「精神的であると同時に、肉体的な結びつきから、単に精神的な結びつきへと移行しやすい註10 」のだ。母親は子供が独立するまで子を養う義務があり、それは長期にわたって続いていくものである。成長するにしたがってこの関係は弱まっていくが、先にも述べたように、子が感じた母の心遣いや互いに喜びあった感情などでこの関係は分離の可能性にさらされながらも維持されるのだ。父子の場合においては、やはりゲマインシャフト的な意味においても自分の種を後世に残すことが意味づけられている。「父権はゲマインシャフト的な意味における支配の理念をもっとも純粋に基礎付けて註11 」いるのだ。その先に共通にある理由は自分の種を後世にまで伝えることであり、この究極の目標が消えない限り父親の支配欲は消滅しないと考えられる。だが、支配欲を消滅させたいというのではない。この父親の欲がなければ家族という制度は簡単に崩壊していただろう。 <第二節 ゲマインシャフトで見る家族> 先に人間関係は出生に関連していると述べた。これは簡単に言えば血の繋がりが人間関係において多大な影響を与えているということである。そしてこの血のつながりについてテンニエスは「存在の統一としての血のゲマインシャフトは、共同生活をその直接の表現としている場所のゲマインシャフトに分化する註12 」と述べている。血の繋がりを持ち、ともに生活をしていればそれはやがてそれは血ではなく、その生活している場に考えは変わってくるのである。個人を行動の単位として見るのではなく、他の人間との、ここでは家族の者との「共同の所有が一般的に結びついている 註13 」のである。血の繋がった者同士のゲマインシャフトを表すものは、家族という団体ではなく、生活をしている場所、つまりは家になるということである。しかし、共同生活といっても結局は当人同士の意志の問題であると考える。血縁者であるといっても共同生活を拒否すればそこで終了してしまい、場所のゲマインシャフトとは考えられなくなってしまうのだ。では、共同生活が継続する理由は何なのであろうか。テンニエスによれば、肉親同士で家をその場所とし、人々は一つ屋根の下で共に生活をし、よきものの所有と享楽を共にしているという。そして、重要なのが死者の存在だという。私たちは祖先を崇め敬まっている。そして時に、その祖先が死んだ今もなおその家庭に影響力を及ぼす場合がある。「家族の長を保護しながら支配しているかのように、見えざる霊としてあがめられている註14 」のだ。つまり、共同生活が継続する理由として「共同の恐怖と尊敬 註15 」があげられるのである。生活のみならず、恐怖と尊敬をも共に所有することにより我々の平和な共同生活や共同作業は保証されるのである。しかし、共同生活から離れた場合でもこのゲマインシャフトは続くと考えられる。例えば、独立し両親とは離れて暮らすことになった場合でも我々は、距離に関係なく共同の生活をしているのではないか。それはつまり、精神的な繋がりは物理的な距離に勝るのではないかということだ。これまでの共同生活の経験から私たちは想像の中で、離れた場合でもなお繋がっていると考えるのだ。しかし、私たちの「愛の欲求はすべて、肉親的な意志と精神的な接近註16 」を求めており、分離することを嫌うのである。したがって「普通の人は─究極において、また一般に─家族や身内の者にとりかこまれている時がもっとも幸福であり、もっとも楽しく感ずる 註17 」のである。やはり、人々が安らぎを感じることができるのは家族と共にいるときであり、また、安らぎを求めるために家族という存在を維持したがるのではないだろうか。 <第三章 家族が与える影響> これまでに家族の意味について主に述べてきた。ここでは、その家族における子供への影響について考えていきたい。私たちの性格は幼い時の環境に影響されるという。もちろん生まれ持った性質などはあるが、ここでは家族の存在が、主に両親が、幼い子供の成長にどのような影響を及ぼしているのかについて論じる。第一節では幼児期の人格形成について、第二節では将来の人間関係をふまえた結果、理想とされる家族環境とはどのようなものかについて論じる。 <第一節 幼児期の人格形成> 子供はみな無力な状態で生まれてくる。そこで必要になるのが成人の愛護、一般的に言えば両親の愛である。子供に社会家庭を順調に歩ませるために必要な2つの要素がある。それは「いつくしみ、はぐくむ」愛護と「きたえ、みちびく」訓練である。前者の根本にあるものとは「すべてを暖かくつつみこみ、親子が一体化する母性原理註18 」であり、後者では「是非善悪のけじめをきちんとつけ、親子の間を分離・切断し子どもの自立を育てる父性原理註19 」なのである。このような親からの愛情を受け成長することは愛情を受けずに育った子どもに比べればはるかに良い。この場合両親からではなく、離婚した場合などで片親からの愛情だけで育った場合でも同じことがいえる。だが、正しい種類の愛情、誤った種類の愛情はある。ここでは正しい愛情について述べることとする。ここで述べている「正しい」種類の愛情とは子どもの発達を手助けするもののことである。「親の愛情は、この危険な世界にあっても自分は安全なのだ、という感じを子どもに抱かせるし、いろいろ実験したり、自分の環境を探求したりするときに、大胆さを与える註20 」のだ。このような感情は子どもの生活においてかなり重要な位置を占める。したがって、親からの愛情を受けずに育った子どもは、体力的には健康であったとしても、精神的な面では非常に不健康で、神経質になりがちであり、時には犯罪に手を染めてしまうこともある。こんなにも親の愛情によって子どもが左右されてしまうのは、子ども自身が「本能的に、自分がいかに無力であるか、また、自分がどれほど保護を必要としているか、そして、その保護は愛情のみが確保してくれるのだ、ということを知っているから 註21 」なのである。そしてその愛情というものは、親以外からは得がたいのである。自分の居場所を探して親からの愛情を求めたが得られなかった場合、その欲求は誰からも満たされることはないのだ。このような場合、子どもは幸福を感じることができず、それは将来においてもトラウマとなり子どもの心に残るのである。 <第二節 理想の家族環境> 第一節で述べたように親の愛情が子どもに与える影響は大きい。またフロイトの説によると子どもの家族の者に対して抱いている感情は危険性を持っている。性的なライバルとしてとらえているため父親を憎み、母親には極度の嫌悪の目で見られる情緒を抱いており、兄弟姉妹に対しては、自分がすべて受けたい両親の愛情の一部を吸収されてしまうという理由から憎んでいるというのである。この説は過激なようであるがいささか間違ってはいないと考えられる。そして、ここで重要になってくるのは性である。私たちは性の話をタブーとしがちであるが、実はこの性についての対応こそが家族環境を良いものにも悪いものにもするのである。子どもが異性的な感情を母親に抱いており、それに気づかずにその感情を一身に受けてしまった場合フロイトの説の結果になってしまうかもしれない。ここで重要なのが、母親なのである。「もしも、母親が自分の性生活に満足しているなら、こういうことはずっと起こりにくくなる註22 」のである。何故なら、自分が満たされているならば子どもに対して愛情を求める必要がないからである。その安定した満足感は本来成人から求めるべきものであって子どもから求めるべきものではない。性生活に満足している幸福な女性は満足していない不幸な女性に比べて、良い母親になりやすいのである。だが、常に幸福でいることは難しいことなので、母親は自制心を持ち備えていなくてはならないのである。また、幼い子どもは他の子どもと交わることで母親に対する異性愛的な情緒を発散することができる。こういった意味でも他の子どもと交わることは子どもが健全に成長するためには必要不可欠なのである。そして、兄弟姉妹がいる場合はその対応にも配慮しなければならない。兄弟姉妹間の嫉妬はしかたないと言ってしまえばそうなのだが、それを食い止める方法もある。それは、細心すぎるほどの公平さを守ることであるである。そして「新たに弟や妹が生まれたときには、ほかの子供が、自分は両親にとって前よりも大切でなくなった、と思いこむことがないように骨を折らなければならない 註23 」のである。 このようなことから、子供の成長に良い理想の家族とは次のことが必要条件となってくる。「両親、とりわけ母親は、できれば、性生活において不幸であってはならない。両親はともに、幼年期にふさわしくない反応を求めるような情緒的な関係を子供と持つことを避けなければならない。兄弟姉妹間に、いっさい、えこひいきがあってはならない。そして、どの子供も、完全に偏らない公平さで取り扱わなければならない 註24 」ということである。この条件を満たした家族環境を作れば、子供は精神的にとても良く成長するであろう。 <結論> 以上のように家族とは何かについて論じてきた。家族とは私たちにとって、両親から愛情を受け、安らぎを得る場であると同時に、そこには父親・母親の利益関係が働いている。父親にとって子供は自分の意志を後世にまで伝えるための手段であり、そのために結婚するといっても過言ではない。そのような家族が経済発展をするにつれて脆くなり、現在は家庭崩壊と呼ばれる事例もおきている。経済が発展すると自然と多数の子どもは必要となくなり、そのことが家族内での父親の権力減に影響したのである。また、このことから子どもがいないということは、後世に自分の種を残そうとする意志・野望がない表れだと考えられる。 私たちは家族の中で成長する以上、家族から多大な影響を受けるのである。子どもを精神的に幸福に育てたいと願うならば第三章第二節で述べた注意を守る必要があるのだ。その注意を守らない家族が増えたため、マイナス面を多く受けた性格が形成され現在のような希薄な人間関係が子どもの頃から作られてしまうのである。私たちの多くは本来の家族のあり方を見失っている。希薄な人間関係を改善したいのならば、人格の形成に多大な影響を及ぼしている家族、特に両親の、あり方を正しい種類のものにしなければならないのである。 註 ラッセル 『ラッセル結婚論』 安藤貞雄訳 岩波文庫 1996年 28頁 >>>本文へ 同上 28頁 >>>本文へ 同上 29頁 >>>本文へ 同上 31頁 >>>本文へ 同上 173頁 >>>本文へ 同上 180頁 >>>本文へ テンニエス 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト─純粋社会学の基本概念─』上 杉之原寿一訳 岩波書店 37頁 >>>本文へ 同上 50頁 >>>本文へ 同上 41頁 >>>本文へ 同上 42頁 >>>本文へ 同上 45頁 >>>本文へ 同上 50頁 >>>本文へ 同上 50頁 >>>本文へ 同上 51頁 >>>本文へ 同上 51頁 >>>本文へ 同上 51頁 >>>本文へ 同上 51頁 >>>本文へ 森岡清美・望月崇 『新しい家族社会学』四訂版 培風館 1997年 128頁 >>>本文へ 同上 128頁 >>>本文へ 『ラッセル結婚論』 189頁 >>>本文へ 同上 189頁 >>>本文へ 同上 186頁 >>>本文へ 同上 188頁 >>>本文へ 同上 188頁 >>>本文へ 参考文献 ラッセル 『ラッセル結婚論』 安藤貞雄訳、岩波文庫、1996年 テンニエス 『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト─純粋社会学の基本概念─ 上』 杉之上寿一訳、岩波書店 森岡清美・望月崇 『新しい家族社会学』四訂版 培風間館、1997年 |