―国家、文化の恣意性、近代的精神における個人主義、グローバル化― 論文概説 人間は本来一人一人異なった多様な存在である。しかし人間は国家、または、自分の属する文化圏によって、恣意的に分類される。人間の多様性の存立条件は、人間一人一人が個人の意識を持っていることである。そしてそれは集団の集まりを存立条件とする倫理を否定することによって成し遂げられる。したがって、多様な人間を恣意的に分類する国家や文化という枠組みを否定することは、人間一人一人が個人の意識を持つことにつながり、人間を本来の多様な姿にするのである。また、近年急速に進んでいるグローバル化も自由主義的または民主主義的価値観で世界を包括する性格上、国家レベルでの世界の一元を進めながら、一方では個人レベルでの人間の多様化を促進している。 [目次] ・序章 ・第一章 国家と文化の恣意性 (第一節)中央集権国家 (第二節)国家による包括 (第三節)文化による包括 ・第二章 近代的精神における個人主義 (第一節)ルネサンスと個人の意識の発見 (第二節)倫理の否定 ・第三章 多角的に見るグローバル化 (第一節)積極的グローバル論者 (第二節)悲観的グローバル論者 (第三節)グローバル化による個人の多様化 ・結論 ・序論 以下において、国家、文化の恣意性、近代的精神における個人主義、グローバル化の三つの視点から人間の多様性の存立条件を示す。まずは国家、文化の恣意性に着目する。人間は本来一人一人異なった存在である。にもかかわらず、人間は自分の所属する国家、もしくは自分の属する文化圏によって、自分の特性を判断されるケースがある。国家というものは、その内部の人間を統治し、支配することが必要になる。したがって、本来は多様であるはず人間を統一しなければならない。国家は国家の内部の人間を教化して国家の主義主張に沿うような人民を創造し、国家への帰属意識を人民に持たせる必要があった。現在の日本で、標準語とされている言語は国家が人民を統一するために創造したものである。つまり、純粋な日本語というものは存在しないのである。言語は国家ごとに規定されているものよりも多様である。また言語圏として規定されているものの内部にも多様な言語が存在し、あらゆる視点を抽象化していくことによって、言語を個人にいたるまで細分化していくことができる。国家は人民を統治するために言語だけでなく国土なども国家規模、国家単位にして人民をその範疇に取り込み、帰属意識を持たせた。つまり、本来は多様であるはずの人間を一元化するために恣意的に国語や国土を取り決めたのである。また文化においても同じようなことが言える。多様な人間をひとつの文化で包括することは人間を恣意的に分類することを可能にする。文化というものは便宜上の分類であるという側面を持っており、本来は実体のないものである。また文化も国家と同じように、その範疇における人間は文化を超える多様性を持っており、個人レベルまで細分化することができる。次に近代的精神における個人主義に着目する。註1 中世的な世界観から近代精神の芽生えであるルネサンス的世界観への変化は関心の方向が神の世界から人間の世界へ変化することだった。中世の神に統治を委託された王を中心とする世界において、人々の関心の方向は神の世界に向けられていた。しかしルネサンス期には古代ギリシアの合理的で高度な純粋科学を享受したことによって、これまで神の世界に向けられていた人々の関心は科学に裏づけされた人間の世界に向けられた。その近代の科学的思考によって、以前のような神の世界の倫理は否定され、自我に支えられて進められた。個人の自立は世界の純化を伴っており、自然を教義によって理解するだけでなく、それ自体として、事実の集積の上に探求しようという態度が研究を推し進めていくことになった。宗教改革は、個人の良心に基づく信仰が原理であり、宗教改革に基づくルネサンスは、神の世界の倫理の否定を前提とした個人の意識の発見であった。ルネサンスにおける個人主義の前提となるのは、一人一人が理性と意思をもっていることであり、裏返して言えば、他人に干渉しないことである。個人主義の対立概念は倫理である。倫理の存立条件は集団の集まりである。 註2 つまり、ルネサンスは古代ギリシアの合理的で高度な純粋科学を享受したことによって、神や自然の世界から科学的、合理的な人間を中心とした世界に移行し、集団の集まりを存立条件とする倫理を否定することによって人々に個を発見させ、人間を本来の多様な存在としたのである。次にグローバル化の視点に着目したい。 註3 グローバル論者はグローバル化が現実の明白な現象であるであるという見方をとっている。彼らは社会的諸関係が、圧倒的にグローバルな規模で展開していて、グローバルな相互連結が強まるにつれて、国境がそれほど度重要ではなくなったと論じている。グローバル論者は、新しいグローバルな構造が出現し、そのルールによって諸国や組織と人々の活動が左右されていると述べている。グローバル論者の中でも積極的グローバル論者はグローバル化の恩恵を挙げ、グローバル化の諸影響を歓迎すべき変化であるとする。彼らは社会的関係が拡張することで生活水準は改善され、文化の共有と相互理解が深まるものと考えている。 註4 これとは対照的に、悲観的グローバル論者は、世界がしだいに多様性を失い、均質性を強めているととらえている。彼らは主要な大国の政治的・経済的利益集団の支配を強調している。悲観的グローバル論者は、また、国民的アイデンティティと主権の縮小を否定的にとらえつつ、グローバル化の作用が不均等であることにも注目している。悲観的グローバル論者は、ナショナルな文化や政治と経済はグローバルなフローネットワークに包括されることによる、世界の多様性の喪失、均質性の強化、それによる大国の政治的・経済的利益集団の支配、国民的アイデンティティと主権の縮小を懸念している。しかしグローバル化がそのような否定的な事態を本当に引き起こすとはいえない。確かにグローバル化は、多様な世界を均質化して、ローカルな、またはナショナルな差異や自立性と主権を弱める側面がある。しかしグローバル化が現代のように、自由主義的または民主主義的価値観で世界を包括するという前提なら、グローバル化によって、それがなされる以前ならば抑圧されていたような思想や観念が生まれ、逆に多様な価値観が生まれるのではないだろうか。グローバル化がなされていない状態では、ローカルな文化にしか触れる機会がなく、しかも国家が国民に帰属意識を持たせるために多様な思想を制限し、為政者がなるべく自国の国民の統制を妨げるような外部の情報から国民を遠ざけようとする。したがって個人が自由に思想を持つことが困難になる。つまり、自由主義的または民主主義的価値観で世界を包括するグローバル化がなされていない状況では国家レベルでの多様性はあるが、個人レベルでの多様性はない。グローバル化は多様な世界を均質化して、ローカルなまたはナショナルな差異や自立性と主権を弱める側面があるが、一方ではその自由主義的または民主主義的価値観で世界を包括する性格上、個人が国家を超えた文化に触れることを可能にして、さらにそれを個人が自由に享受することを可能にすることにより、人々が多様であることを促すことになるのである。 ・ 第一章 国家と文化の恣意性 この章では国家、文化の恣意性に着目する。人間は本来一人一人異なった存在である。にもかかわらず、人間は自分の所属する国家、もしくは自分の属する文化圏によって、自分の特性を判断される。以下において国家の本来多様であるはずの人間を統治のために恣意的に教化し人民一人一人に国家への帰属意識を持たる性質と文化に見られる、多様であるはずの人間を恣意的に分類する性質を説明する。 (第一節)中央集権国家 江戸時代の日本は中央集権国家ではなく、地方分権型の国家であった。そのような国家において人間は日本国民であるという意識を持っていなかった。あくまでも、自分がどこの藩、もしくはどこの村に属しているという意識しかもっていなかった。しかし、明治時代以降の日本では、中央集権型の国家体制がしかれた。 註5 中央集権国家を実現するためには、人々に自分が日本国の人間であるということを認識させなければならなかった。そのためには地方分権型の国家であった際の多様な人民を統一する必要があった。中央集権国家は国家の内部の人間を教化して国家の主義主張に沿うような人民を創造し、国家への帰属意識を人々に持たせた。したがって私たちが持っている「私は日本人である」という考えは、古来よりはぐくまれてきたものではなく、江戸幕府が崩壊して、明治時代に入り、以前の地方分権型国家から、中央集権国家に移行したから国家によって恣意的に刷り込まれたものである。国家にとって人民が幼いころから国家への帰属意識を持つことは中央集権体制を維持していくことにおいて絶対の条件となる。 (第二節)国家による包括 それでは国家ごとに統一された人民は他の国家の人民と本質的に異なっているのだろうか。つまり、A国の人間はこうであり、B国の人間はこうであるという様な、国家ごとの特性を人間は持ち合わせているのであろうか。一見すると国家ごと統一された人民は他の国家の人民と異なっているように見える。それは国家が人民に他の国家の人民との差異を過剰に享受させ、自らが他の国家と別個の存在であることを認識させているからである。その例として、日本のスポーツ選手があげられる。日本のスポーツ選手は海外と試合をする際によく「侍」と称される。それは人民に他国の人民とは別個である「日本国」という共同体に属していること「侍」という日本を象徴するような言葉を使って認識させているのである。つまり他の国家と相対化することによって、自国に特異性を見出しているのである。国家にかかわらず、シンボルというものはそれを掲げると人々に、共同体に属していることを認識させる効果がある。人民を日本国に一員であることを意識させるには、日本のスポーツ選手が侍の精神を持っていようと持っていなかろうと関係なく「侍」というように、自国の象徴をアピールする必要があるのである。またこのことは、国家間で互を誤解しあうことにもつながる。つまり、A国の人間はこうであり、B国の人間はこうであるという様な、偏った視点から他国を見ることにつながる。日本ならば、他国から「あの国の人間は皆勤勉である」とか、「今でも曲げを結って、着物を着ている人がいる」などと誤解を受けることになる。本来、人間は、国家ごとの特性を持ち合わせていない。なぜならば、一般的に見られる国家ごとの特性は国家によって作られたものであり、恣意的なものであるからである。つまり中央集権国家は自国民に自国への帰属意識を持たせるために、国土を決め、様々な言語が存在するにもかかわらず、国語をつくり、国歌、国旗を決めたのである。そして恣意的に本来は多様である人間を包括したのである。 (第三節)文化による包括 本来は多様である人間を包括するのは国家という枠組みにおいてだけではない。文化という枠組みにおいても同じである。つまりA文化、B文化というように恣意的に分類することによって、多様な人間をひとつの文化で包括しているのである。また文化は細分化するとそれを構成する一個人の癖や性格にたどり着くという性質を持っている。たとえば、日本の文化の中でも関東と関西では違いがあるし、さらに大阪の文化でも北と南では違いがある。 註6 このように文化は細分化していくことができ、最終的には個人レベルの違いになるのである。これらのことから分かるように、国家や文化という枠組みは恣意的に多様な人間をひとつのカテゴリーで包括しているのである。また、文化は第二章で述べた国家が本来多様であるはずの人民を一元化する現象に大きく関係する。国家は自国の文化の特異性を人民にアピールして国家への帰属意識を持たせているのである。軍国主義時代の日本では日本人の民族と文化の崇高さを人民に知らしめて自国への誇りを持たせた。しかし純粋な日本文化などは存在せず、古来より中国、韓国、琉球と交流し影響を受けているし、大和国家の時代にも蝦夷や隼人と、もしくは室町時代から江戸時代にかけて侵略したアイヌ人との混血の人々も数知れない。文化を定義つけるのはさまざまな具象の中から何を抽象してくるかである。したがって、本来は文化を超えて多様である人間を文化で性格に分類して測ることは不可能である。 ・ 第二章 近代的精神における個人主義 この章では、近代的精神における個人主義に着目し、中世的な世界観から近代精神の芽生えであるルネサンス的世界観への変化が集団の集まりを存立条件とする倫理を否定し、一人一人が理性と意思をもっていることを前提とした、個人主義を確立したことを説明する。 (第一節)ルネサンスと個人の意識の発見 註7 中世的な世界観から近代精神の芽生えであるルネサンス的世界観への変化は関心の方向が神の世界から人間の世界へ変化することだった。中世の封建体制での神に統治を委託された王を中心とする世界において、人々の関心の方向は王の背後にいる神の世界に向けられていた。 註8 しかし、中世のキリスト教世界にそぐわない点が多かった古代ギリシアの思想や科学が古代オリエント文化と融合して、イスラム世界を解して、受け入れられたルネサンス期には古代ギリシアの合理的で高度な純粋科学を受容したことによって、これまで神の世界に向けられていた人々の関心は科学に裏づけされた人間の世界に向けられた。その近代の科学的思考によって、以前のような神の世界の倫理は否定され、自我に支えられて進められた。個人の自立は世界の純化を伴っており、自然を教義によって理解するだけでなく、それ自体として、事実の集積の上に探求しようという態度が研究を推し進めていくことになった。ルネサンス期おいて、人々は神や自然を古代ギリシアの合理的な思想や科学で克服したのである。また、宗教改革は、個人の良心に基づく信仰が原理であり、 註9 宗教改革に基づくルネサンスは人々の個人の意識の発見を促した。ルネサンスにおける個人の発見の前提となるのは、一人一人自発的であり、さらに理性と意思をもっていることである。つまり、ルネサンスは合理的で高度な純粋科学を享受したことによって、神や自然への畏れから脱却し、古代ギリシアの科学技術裏打ちされたに合理主義的な人間中心の世界を築くことによって、人々に個を発見させ、人間を本来の多様な存在としたのである。 (第二節)倫理の否定 近代という時代は個人が尊重される原理を内蔵する。そのような社会では倫理がかつてのような権利を持たない。近代的精神は倫理を否定することに成立していて、それを個人主義といったり、合理主義と言ったりする。個人主義の前提となるのは、一人一人が理性と意思をもっていることであり、裏返して言えば、他人に干渉しないことである。個人主義の対立概念は集団の集まりを存立条件とする倫理である。現在の学校規則は、個人の自由という視点を欠いている。法律では個人を大切にするので、刑罰の上限が示されているが、校則は生徒ではなく、学校の倫理性が重要であるので、刑罰の下限が明記されている。そこには脅しという前近代的効果も意図があるのではないだろうか。個人主義の対立概念は倫理である。倫理の存立条件は集団の集まりである。近代的精神における個人主義とは人間一人一人が自発的になり理性と意思を持って、集団の集まりを存立条件とした倫理を否定することである。 ・ 第三章 多角的に見るグローバル化 現代、世界では目覚しいスピードでグローバル化が進んでいる。この現象は、ナショナルな文化や政治と経済はグローバルなフローネットワークに包括されることによる、世界の多様性の喪失、均質性の強化、それによる大国の政治的・経済的利益集団の支配、国民的アイデンティティと主権の縮小を引き起こすと考えられているが、国家レベルでの均質化が進む一方で、個人レベルでの多様化が進んでいるということを証明する。 (第一節)積極的グローバル論者 註10 グローバル論者はグローバル化が現実の明白な現象であるであるという見方をとっている。彼らは社会的諸関係が、圧倒的にグローバルな規模で展開していて、グローバルな相互連結が強まるにつれて、国境がそれほど度重要ではなくなったと論じている。 註11 グローバル論者は、新しいグローバルな構造が出現し、そのルールによって諸国や組織と人々の活動が左右されていると述べている。グローバル論者の中でも積極的グローバル論者はグローバル化の恩恵を挙げ、グローバル化の諸影響を歓迎すべき変化であるとする。彼らは社会的関係が拡張することで生活水準は改善され、文化の共有と相互理解が深まるものと考えている。 (第二節)悲観的グローバル論者 註12 これとは対照的に、悲観的グローバル論者は、世界がしだいに多様性を失い、均質性を強めているととらえている。彼らは主要な大国の政治的・経済的利益集団の支配を強調している。悲観的グローバル論者は、また、国民的アイデンティティと主権の縮小を否定的にとらえつつ、グローバル化の作用が不均等であることにも注目している。彼らは、註12 グローバル化の構造に焦点を据えるなかで、不平等が深刻なまでに広がっているとし、この点は、情報とコミュニケーションの手段のみならず、インフラストラクチャとそのフローの所有パターンにも認められると指摘している。 (第三節)グローバル化による個人の多様化 悲観的グローバル論者は、ナショナルな文化や政治と経済はグローバルなフローネットワークに包括されることによる、世界の多様性の喪失、均質性の強化、それによる大国の政治的・経済的利益集団の支配、国民的アイデンティティと主権の縮小を懸念しているが、はたしてグローバル化がそのような否定的な事態を本当に引き起こすといえるだろうか。確かにグローバル化は、多様な世界を均質化して、ローカルな、またはナショナルな差異や自立性と主権を弱める側面がある。しかしグローバル化が現代のように、自由主義的または民主主義的価値観で世界を包括するという前提なら、グローバル化によって、それがなされる以前ならば抑圧されていたような思想や観念が生まれ、逆に多様な価値観が生まれるのではないだろうか。グローバル化がなされていない状態では、ローカルな文化にしか触れる機会がなく、しかも国家が国民に帰属意識を持たせるために多様な思想を制限し、為政者がなるべく自国の国民の統制を妨げるような外部の情から国民を遠ざけようとする。したがって個人が自由に思想を持つことが困難になる。つまり、自由主義的または民主主義的価値観で世界を包括するグローバル化がなされていない状況では国家レベルでの多様性はあるが、個人レベルでの多様性はない。グローバル化は多様な世界を均質化して、ローカルなまたはナショナルな差異や自立性と主権を弱める側面があるが、一方ではその自由主義的または民主主義的価値観で世界を包括する性格上、個人が国家を超えた文化に触れることを可能にして、さらにそれを個人が自由に享受することを可能にすることにより、人々が多様であることを促すことになるのである。 ・結論 国家は本来多様であるはずの人間を統治のために恣意的に教化し人民一人一人に国家への帰属意識を持たせる。そのために国家は多様な言語を統一し、国土、国旗、国歌を定めて、さらに、他国との差異を強調して自国が他国の人民と別個の存在であることをアピールすることのよって人民に国家という共同体の一員であることを認識させる。また文化も多様であるはずの人間を恣意的に分類する性質がある。実際の文化の姿は雑種であり、文化を定義つけるのはさまざまな具象の中から何を抽象してくるかである。したがって、本来は文化を超えて多様である人間を文化で性格に分類して測ることは不可能であり、結局は文化を細分化すると個人レベルの習慣に行き着くのである。このことから、分かることは、人間の多様性の存立条件は、人間一人一人が個人の意識を持っていることである。近代的精神は倫理を否定することに成立していて、それを個人主義といったり、合理主義と言ったりする。個人主義の前提となるのは、一人一人が理性と意思をもっていることであり、裏返して言えば、他人に干渉しないことである。個人主義の対立概念は集団の集まりを存立条件とする倫理である。そして個人の意識を持つということは、集団の集まりを存立条件とする倫理を否定することである。つまり、国家や文化という枠組みが恣意的に多様な人間をひとつのカテゴリーで包括することを否定すること、もしくは自由主義的または民主主義的価値観で世界を包括する性格を持つグローバル化は人間の多様性の存立条件となる。 文末脚注 1 原田達著『知と権力の社会学』世界思想社 1994年 39頁 >>>本文へ 2 同上 43頁 >>>本文へ 3 デイヴィッド・ヘルド著『グローバル化とは何か』中谷義和訳 法律文化社 2002年 60 >>>本文へ 4 デイヴィッド・ヘルド著『グローバル化とは何か』中谷義和訳 法律文化社 2002年 63頁 >>>本文へ 5 H・トリアンディス著『個人主義と集団主義』神山貴弥・藤原武弘編訳北大路書房2002年 97頁 >>>本文へ 6 テリー・イーグルトン著『文化とは何か』大橋陽一訳 松柏社 2006年 102頁 >>>本文へ 7 原田達著『知と権力の社会学』世界思想社 1994年 39頁 >>>本文へ 8 アジア文化フォーラム京都2006報告書 >>>本文へ 9 原田達著『知と権力の社会学』世界思想社 1994年 51頁 >>>本文へ 10 デイヴィッド・ヘルド著『グローバル化とは何か』中谷義和訳 法律文化社 2002年 59頁 >>>本文へ 11 同上60頁 >>>本文へ 12 同上63頁 >>>本文へ 13 同上64頁 >>>本文へ
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